【クラシック音楽-003】 指揮者:カルロス・クライバー

2004年7月13日 クライバーが亡くなった。74歳でした。
僕にとって、この指揮者は、大きな存在でした。中学生の頃、友達から紹介されてクラシック音楽を聴くようになった頃、彼はいきなり楽壇に登場しました。ベートーヴェンの交響曲の確か第4番の演奏でした。そのあと僕は、彼の指揮による、ウィーン・フィルのハ短調交響曲、通称「運命」に出会うことになります。高校生になってからでした。僕のそれは、クラシック音楽に関する第一の情報入手源であるNHK-FMでの放送でした。
「運命」の音は、僕をして、ステレオの前に釘付けにさせました。クラシック音楽が好きになって、いろんな演奏を聴いたり、雑誌を読んだりして、僕も幾分耳年増になっていました。「運命」は中でももっとも多くの指揮者とオーケストラの演奏を聴いていました。レコードも何枚か持っていました。そんな僕でしたが、クライバーの指揮するウィーン・フィルの「運命」には、そんな知識が何もいらないくらい、感動しました。それが証拠に、身体がもう震えているのです。僕の震えは、イコール感動の大きさなのです。ほんの一瞬の隙もない、完璧な演奏でした。
クライバーの「運命」の演奏には、いくつかの驚きがありました。
第一に、これがウィーン・フィルの音なんだ、という新たな感動。その流麗な演奏で定評のあるウィーン・フィルが、何てきびきびした緊張みなぎる演奏をするんだろうと、ウィーン・フィルに対する印象を新たにしました。
次は、これまたウィーン・フィルと録音技術との両方についてですが、弦の音がまるでステレオの中で弦楽器奏者が髪振り乱しながら演奏しているかのように、すぐそこで聞こえるのです。弦楽器はヴィブラートさえも皆んな合ってしまうという、あの伝統的な音を守り続けているウィーン・フィルが、本当にすぐそこにいるかのようでした。それは驚きました。
第3は、それを指揮していたのが、カルロス・クライバーだということ。僕は、クライバーのことは「運命」を聴いたときには、頭の中にはありませんでした。なぜ初めて聴いた指揮者ではないということがわかったのかというと、僕はFM放送のエア・チェックのカセットテープが、恐らく600本くらいあります。これらを管理するために、中学生の頃から明確な記録をとっていて、自分用のインデックスにしていました。そこに「カルロス・クライバー指揮の運命」を書き入れようとして、ふいと見たら、すぐ前の地味なシンフォニー「第4番」のところに彼の名前がありました。当時は第4番のシンフォニー自体が、ほとんど興味の対象からはずれていたので、彼の演奏の素晴らしさに気づかなかったのですね。
後に知り得た情報では、彼はとても気難しい音楽家だったようです。僕の好きな音楽化には、気難しい人が結構います。直接対面したら、恐れ慄いてしまいそうな人たちですが、彼らの音楽からは、そのきびきびした演奏、独特のユニークな解釈、そして何よりも、彼らの作曲家に対する真摯な研究の結果が聴こえてくるのですね。
クライバーの気難しさに関しては、いくつもエピソードがあります。コンサートを直前でキャンセルしたとか、レコード録音の日に会場に現れなかったとか。あれ、これって誰かと似てる。そう、私の永遠のプリマドンナ:マリア・カラス。変な共通点があるものだと、感心してしまいました。カラスの気難しさはまた今度書きますが、2人に共通しているのは、それだけ音楽に対して真剣であり、命がけだったということだと僕は思っています。
クライバーは、そういった奇才とも言える音楽家としては珍しく、酷評されたことの少ない(僕は殆ど記憶にない)音楽家でした。カラスにしろ、グールドにしろ、ヨーヨー・マにしろ、並外れた音楽家が出てくると、普通の評論家は、まずこき下ろします。本当に自分の耳と心に忠実な評論家だけが絶賛します。クライバーの作り出す音楽は十分画期的だったにもかかわらず、アンチ派が評論家にも、プロの音楽家にも、聴衆にも、殆どいなかったのです。これは不思議なことです。
最後に、僕の大好きだったカルロス・クライバーに哀悼の意をささげます。
僕の中ではあなたは今でも生き続けています。そして、これも不思議ですが、あなたはモノクロの写真がお似合いです。ですので、このCDジャケットの写真(白と黒の2色だけの画)は大好きです。指揮者の一人目として紹介させて頂きました。第一番は、あなたしかいません。
【写真の撮影データ】
タイトル 「孤高の指揮者:カルロス・クライバー(1930-2004)」
カメラ機種名 EPSON Scanner GT-7600U(スキャナー)
この記事へのコメント
papalinさんの仰るとおり、ウィーン・フィルの弦ってすごいですよね。すぐ耳のそばで息づいているかの如く聞こえてきます。
そして、「5番」。
私がはじめて指揮者を意識して聴いたのはカール・ベームでした。もちろん、ウィーン・フィルで。最初に聞いたものって、あとあとまで引っ張られません?
「5番」について何か、とも思ったのですが、ことベートーヴェンに関してはその場の思いつきでほいほい書けないものがあります。ここで改めて聴きなおしてみて、その大きさに負けてしまわなければ、ちょこっと何か書いてみたいのですが。
でも、負けちゃいそうです。いつも負けてます。
理由はわからないのですが、若い頃はブラームスが苦手でした。一種、食わず嫌い的なところが強かったような気がします。
ところが、クライバーの振るこのブラームスは、今まで私が聴いたどのブラームスとも違っていました。
地味で暗く重い、というそれまでのイメージが打って変わって、うねるように官能的な響きで圧倒されてしまいました。
「ブラームスはお好き?」というサガンの小説、読んでみようと思ったのもこの頃です。
何度もマリア・カラスは、ブログに登場していますが、私とマリアとの出会いは、高校生の時です。
音楽の先生がマリア・カラスが大好きで、サウンド・オブ・ミュージックを始めとしていつも鑑賞曲はマリアさんが多かったような気がします。歌のテストは、彼女の歌だったような(今にして思えば)
うちの高校は合唱部が有名で、全国で金賞をとっていました。音楽の先生は、その合唱部の顧問でした。あまり洋楽に興味のなかった私は、その先生のお顔とマリアさんのお顔が重なって見えていました。髪型がよく似てました。(回顧録でした)
例えはよくないのですが、ご近所のよく見知った人が亡くなられるより呆然とすることが多いのはなぜでしょう?
音楽を聴いている時は、私は、演奏者と二人だけで、ひとつの想い、同じ感情を共有しているような気がします。
そのとき、レコードやCDを通してしか知らない人に、誰よりも近くにいるという想いがしてくるのです。
このようにして、多くを共有してきた演奏家が亡くなるとそれら、共有した感動も共に喪われてしまうような喪失感に陥る(私の場合)ような気がします。
おおげさに言えば、自分の大切な部分が失われたという感覚です。
papalinさんにとってクライバーもそういう存在だったのかしらと思いました。
最初に聴いた演奏が、耳に残るのは当然です。だって、その曲を、その人(たち)の演奏で知るわけですから。
カール・ベーム、なぜが僕が子供の頃に、25cmLPレコードがありました。なので、名前は覚えていました。来日したときには、テレビ中継(確か生中継だったと思いますが)を、8mmテープで録画しました。すごい人気でしたよね。ちょっと遅めのテンポにじれったくなることもありましたが(対極的なところにカラヤンがいたので)、それでも好きな指揮者の一人でしたね。
ちなみに、カルロスのお父さんのエーリヒ・クライバーの指揮する曲、聴いたことはありますか? Beethovenのハ短調交響曲の録音もあって、比べて聴くと面白いです。
カルロス・クライバーという名前だけ、頭に残ってくれれば十分です。何かのときに話に出てくるかもしれません。そのときには、知ったかぶりして喋ってください。(笑)
クライバーのブラームス、CDで出ているでしょうか?もし、でているなら私も欲しいです。レコードが一斉にCD化したころから聴いていません。私の記憶が当たっているか確かめるためにも、もう一度聴いてみたいと思います。
記憶の中でしか聴けない曲って、ありませんか?何年も、何十年も記憶なかで鳴り続けている幻の曲。
場合によっては、曲名さえもわからない曲。
何年も鳴り響いている音、名前も知らない音楽、ありますね。僕のビゼーの真珠なんかも、期間こそそんな長くはなかったものの、同じようなことがいえると思います。
http://grappa60.at.webry.info/200509/article_6.html
その昔、オメガトライブというグループのボーカルをつとめていた、日経ブラジル人がいました。君は1000%♪なんて、聴いたことありませんか?
左上のEscというボタンを押したのかも知れません(再び涙)大好きな歌や、大好きなシーンについて一杯書いたのに悲しいです。
私もきっと「古い奴」なんだと思います。なんといっても、私の音楽は父のSPレコードから始まったのですから。
そのヒュッシュ、SPが聞けなくなってからもう長い事耳にすることがありませんでした。それなのに、なんという奇遇!立ち寄ったCD屋さんで、本当に偶然、彼の「冬の旅」をみつけたのです。
勇んで買ってきたものの、すぐに聞くことはできませんでした。自分の記憶の中のヒュッシュと違っていたら・・・という危惧がはやる心を押しとどめていたのです。
でも、なんという幸い。恐る恐る聴いてみた「冬の旅」は初めて聴いたあの時と寸分変わらず私の耳に響いてきました。
懐かしいあのバリトン。感動で涙がでそうになりました。
CD屋さん、一緒に行こうと誘ってくれた友人にただただ感謝!です。
書き上げた昂揚感がなくなる・・・わかります。勢いで書いた文は、勢いがありますから。(?)また、papalinがサウンドオブミュージックについてのブログをアップした時に気持ち新たにコメントしてみたらどうでしょうか?
さあ、papalin、急いで!!
関係ない話題でごめんなさい。でもpapalinは許してくださいますよね。(毎度のことですからね)
カルロス・クライバーのブラームスのシンフォニー、第4番のCDと第2番のDVD&LDが出ているようです。どんなブラームスですかね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006BGR9/249-8431366-6296324
> あの時の昂揚感が戻ってこないんですよね。
というお気持ち、よくわかります。切ない上に、同じ事を2度書くのは辛いですよね。僕の場合は、そういう時には、たとえ仕事の文書でも、リピートしようとはしません。新たにクリエイトしようと思います。そうすると、心の負担は軽くなります。健全です。(笑)
エーリヒ.クライバーの、運命と田園を、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で1953年版を聴いたことがありますが、カルロスの緻密さと比べると、大らかな演奏だと感じました。でも、運命はよかったですよ。
ゲルハルト・ヒュッシュというバリトン歌手ですが、Papalinは聴いたことがないです。SP時代の歌手というと、往年の...ということなのでしょうが、フェリアーに続いて、SP版がCDに蘇っての傾聴だったのですね。きっと当時の懐かしい思い出と、現代のノイズ・キャンセリング技術の卓越さを一緒に感じられたのではないかと思います。バリトン歌手には有名な人が大勢いますね。Papalinは自分がTenorなので、Baritoneの低音から高音までの均整の取れた声には、憧れがあります。もし機会があれば、聴いてみますね。
ほんとに、aostaさんの気持ちは汲みするところですね。Sound of Music ですね。そのうちに書きましょう。しかし、Readerからブログのタイトルとテーマを要求されるブロガーって、私くらいぢゃないですか? ・・・ 笑
検索したら、アカデミックな記事に引っかかる...う~ん、Papalinではありえないなぁ。
papalinさん、今朝はほんとうにお早いですね。もしかして、もうアシュピンのママさんと庭でお仕事されているのでしょうか?
ヒュッシュのCD、papalinさんの仰るとおりでした。ノイズがないんです!下手すれば、ちょっと寂しいかなと思うくらいきれいにカットされていました。SPに限らず、レコードにノイズはつきものでした。静かに針を下ろして音が鳴り出すまでのしばしの時間の、あのかすかなノイズさえもいまでは、懐かしいものになってしまったんですね。
by aosta婆
(私の「飲む」には、「食べる」の意も含まれています)空気の色からして違うような気がします。トスカーナ、ウンブリア地方の田園
風景も忘れ難い魅力にあふれていますね。
aostaは、トリノの近く、アルプス、アギュイ
・ディ・ミディの麓にあります。小さくて、素朴で地酒(ワインです、もちろん!)がおいしかった思い出の街です。
今日は、ああ、起きなくっちゃと思い、あれっ、今日って、休み?といぶかしながら起きた朝でした。今日も模試ですが、だんなが息子を学校まで連れて行ってくれるので、お弁当を作っても7時過ぎ起きでも大丈夫な朝でした。
文化の日、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
私は、一つの夢がイタリアに行くことです。もうすぐ銀婚式なのでそれにひっかけて行こう!という気持ちは十分あります。
海外脱出は新婚旅行のハワイだけ。ちょっと前までは沖縄にはまり、今は、北海道にはまっています。北海道の広大な景色は、今まで見たこともなかった風景です。今まで見たこともない景色をたくさん見ていきたいです。
> aosta婆
いいですね。響きも悪くありません。略すと、sta婆。これもいい感じです。
ちなみに僕は、tetsu自慰(何だ、この漢字変換は)ならぬ、tetsu爺です。
> aosta婆
いいですね。響きも悪くありません。略すと、sta婆。これもいい感じです。
ちなみに僕は、tetsu自慰(何だ、この漢字変換は)ならぬ、tetsu爺です。
> aosta婆
いいですね。響きも悪くありません。略すと、sta婆。これもいい感じです。
ちなみに僕は、tetsu自慰(何だ、この漢字変換は)ならぬ、tetsu爺です。
♪カンターレ!
§マンジャーレ!
♀アモーレ!♀
休みの前日は夜更かししてしまいます。
休みの当日ははやおきしてしまいます。
ほんと、子供のような心を持ったPapalinです。
銀婚式、楽しみですね。
稚内近くの「原生花園」、富良野手前の美瑛の風景が印象深く、残っています。
景色も素晴らしいですが、食べ物も美味しい!安い!
稚内の取引先の方が、その朝獲れたばかりのイカを届けてくれたことがありましたが、透き通るように輝いていました。
毛ガニもよくいただいて、「またカニなの~」と、今思えば罰当たりなことを言っていました。そうそう、生のホワイトアスパラ、香りといい、食感といい最高でした。
・・・なぜか、食べ物の話になってしまいました・・・
aosta001さん、そうなんです。この美瑛の景色は、日本のどこにもありませんね。麦、じゃがいもなどの耕作地帯のパッチワークの丘がとても印象的で心に残ります。
「原生花園」は今年の夏に行きました。ここも昔から憧れの地だったのです。
食べ物は、北海道は、文句なしにおいしいですね。
> イカが ・・・ 透き通るように輝いていました。
これってすごいですね。海に近いところでないと味わえません。でも、新鮮なイカってちょっと堅いんですよね。刺身も少々堅めの食感がいいのですが、それをさらっと油で揚げてもらうと最高です! 九州は小倉での体験でした。
カルロス・クライバーが、やっぱり食べ物の話になっちゃいましたが、まぁ、イカ!(失)
> パッチワークの丘
この表現は素晴らしい!
でも、興味をそそるHNです。
実は、この企画をいつかブログで・・(お願)
もう、大好きなのです「北の国から」。
特に幼少時代の「純」が。友達と純君を取り合いしたこともあります。
昨年、北の国からのロケ地を回り、今年は、最終話の羅臼に行ってみました。トドの漁師のお話の分です。富良野の写真を嬉々として見せると、弟が、つくづく「おねえちゃん、北の国からが好きだったもんねぇ」と言いました。
papalin、特集編ではなく、1時間ドラマの連続編の方がずっといいですよ。何度見ても涙します。
きっと、papalinさんとaostaさんの合体型?
失礼しました。
純が罪を告白して、泣きじゃくって、手をつけられなかった、あのラーメン屋にも行きましたか?
pの隣のoを打ち間違えただけでしょ?
なんで、分かるのですか?やはりワープロ打ちのプロ、お見それしました。
あのラーメン屋のシーンは好きではなかったのですよ。ちょっと、倉本さんの脚本上の真意がわからなかったです。
富良野駅には、もちろん行きましたよ。その近くにあるようです。材木店、小学校にももちろん行きました!
ニュッケルハルパ、形も音色も不思議な楽器です。16弦のうち、音をだすのは4本のみで残り12本は「反響弦」だそうです。
繊細で、重層的な音がします。
ここで、ごめんなさい!子供のお迎えに行ってまいります。今、携帯で呼び出されてしまいました。
ハーディングフィーラー、これは、フィドルと同じくヴァイオリンの一種です。ヴァイオリンより小型で音も高くなります。弦が、羊の腸でできているということで、ひんぱんに調弦しながらの演奏でした。
北欧の民俗音楽、いままで聴いたことのない変調とリズムです。演奏にあわせてのダンスもトゥとヒールをたくみに使い分けた、優雅で、美しいものでした。
12本の弦、想像するに、12音階の全て...ということなのでしょうか、それとも、ある調に特化して、たとえば、ドソドミソ...のような倍音にしているのでしょうかね。
つまらんことですが、反響弦とは異な呼び方ですね。共鳴弦のような気がするのですが。
ヴァイオリンのネックに当たる部分(ヴァイオリンに比べ2倍ほどの幅があります)に、たくさんのボタンのようなものが並んでいて、このボタンを押して弦の高さ”tension”を変えるのだそうです。
この4本に比べ「反響弦」は半分の細さです。主たる4本が出す音に、残る12本が共鳴して、ちょうど、残響のような効果が出るのではと思います。
とても複雑な音色がしました。
ここで気が付きました!私「共鳴」と書きましたよね。奏者もこの言葉を使いましたが、弦の名称については、「反響弦」と言われました。でも意味からすれば、「共鳴弦」のほうが当たっているような感じがします。
言葉でうまくいえないのですが、どちらの音にも「時差」があります。「声」が物質的な、質感と量感を持っています。
ます。ます。と何の根拠もないのに断定的な言い方をしてしまいました。
あくまでも、私の主観にすぎません。
未知の楽器って、まだまだ沢山あるのでしょうね。この16弦の楽器も面白そうです。細いと言うことは、倍音に合わせてあるように思います。当然、共鳴しているのでしょうけれど、反響弦とはこれ如何に...ですね。
原村にNorwegian missionによる小さな教会がありますが、ノルウェイ人の牧師さんのご家族、みんな大の音楽好きです。北欧を初めドイツ、オーストリアの音楽家との交流もあるようです。お嬢さんが素晴らしいヴァイオリンを弾かれるのですが、大使館つながりで今回のコンサートになったと聞いています。スウェーデンは蓼科の「ガムラスタン」(北欧料理のレストランです)の関係で、それぞれの国から、演奏の第一任者を招いてのコンサートだったようです。
ちなみに牧師ご一家のお嬢さん、うちの娘と同級です。教会でもよくヴァイオリンを弾いていましたが、今回久しぶりに彼女の演奏を聴いてほんとうに感動しました。
音楽が好きで好きでたまらない、弾かずには煎られない、という気持ちにあふれた素晴らしい演奏でした。
原村の小さな教会、興味あります。教会でリコーダー吹いたり、宗教曲を歌ってみたいです。
ガムラスタンは、何度か食べたことがあります。
魂の入った演奏には、心を動かされます。
牧師さんは、ミサ曲に代表されるカトリック音楽はどうなのでしょう?
私も、「日本のプロテスタント」日本の「カトリック」しか知りませんし。その理解も十分とはいえないと思います。そのつもりで御読みください。
カトリックの御ミサは「カトリック典礼」に基づいて、入祭唱から始まります。プロテスタントの礼拝はあまりに多くの宗派に分かれているのでいちがいには言えませんがルター以降の比較的平易な賛美歌で始まる事が多いように思います。
現在の教会でミサ曲やレクイエムが演奏されるのは、国家的行事などに限られるようです。国王を教会の頂点とする英国国教会は、ヘンリー8世の私的事情によるヴァチカン離れですから、典礼そのものはほとんどカトリックと同じだと思います。
以外なところで、バッハはプロテスタントです。現在のプロテスタントのスタイルはルターの宗教改革以降、年月を経て完成されてきたもので、バッハの時代はまだ、カトリック典礼の影響がかなり強かったのではないでしょうか。
岡山のノートルダム女子大をリタイアされて、富士見にお住まいの知人がおりますので、一度その方にレクチャーお願いしましょうか?ご専門はヨーロッパ中世の教会史、修道院史だそうです。
バッハがプロテスタントだったことは、僕も学生時代に知りました。なので、いわゆる入祭唱から入る、完全な形のロ短調ミサ曲を作曲したことは不思議です。しかも、この曲はバッハの作品の中でも最高傑作の一つにあげることができると思います。... この続きは、ブログにしましょう。(思いつき)
是非、その方を紹介してください。
確かに「教会典礼音楽」とは言えないのかもしれませんが・・・
ブログの写真のCD、バリトンはフィッシャー・ディスカウの若い頃の録音なのですが、艶のあるいい声をしています。ちなみにソプラノは、ヴィクトリア・デ・ロス・アンへレスです!
わたしも同じCDを持っています。
フィッシャーディースカウの声は、体が震えるほどです!
この、レクイエムでディースカウやロス・アンへレスの歌声を聴くと、神様がいかに人間を精妙で妙なる楽器として創られたのかと感に堪えません。
どの楽器もそれぞれに素晴らしく、美しいのはもちろんですが、ほんとうに魂をつかんで揺すぶるのは、最終的には、人の声のような気が致します。
「楽器」を介して表現されるものと、自分の体そのものを直接つかって表現されるものの違いでしょうか?
papalinさんは、「リコーダーを演奏なさる時」と「歌われる時」と気持ちの上で違うことがありますか?
カトリックでいう”ミサ”はプロテスタントにはありません。”ミサ”に該当するのは、”礼拝”です。カトリック教会における音楽は、信仰に直結する霊的なものですが、プロテスタントにあっては、牧師の説教(聖書の教えを時々の必要において説くこと)が
礼拝で一番重きをおかれます。
カトリックでは、ミサの始まりから終りまでが神の栄光を表す、ひとつの「記念」です。
プロテスタントの多くは、「礼拝の形」にそのような意味を見出す事はまれなことのように思います。
プロテスタント教会にミサはないわけですから、当然そこでミサ曲が演奏されることはありません。
↑のコメント、勢いで書いたので、どこか間違ったことを書いてしまったかしらと、実は少し不安でした。
たまたま、昨日から「音楽史の中のミサ曲」という本を読み始め、大筋において正しいことが確認できました。(やれやれ・・・)
この本ですが、なかなか面白い本です。今まで、この類のものは、読んだことがなかったのです。難しいところもありますが、なるほど!と新たに気づかされることが多く楽しみながら読んでおります。
ただ、残念なことがひとつ。
「索引」がないのです!この手の本は、索引があるとないとでは価値がぜんぜん違ってくると思いませんか?まあ、パソコンで、検索すれば済むことは事実ですが、「活字で確認する」ことには、またべつの喜びがあります。
「音楽の友社」の方が、このブログをみていらっしゃる可能性は、まずないでしょうが、私は声を大にして叫びたい!
「索引を付けてください!!」
索引ですか...。確かにあるとないとでは大違いですよね。特に、言葉の説明、史実の説明などは、欄外にでも書いて欲しいと思うことがあります。もちろん、本文中の言葉の索引も。
クライバーというと,アシュケナージと同時期にラフマニノフ交響曲第二番を録音していました。わたしはこの曲は大好きなのすが(特に晴れた冬の満天の星空のような第二楽章が)クライバーの演奏はぴんと来ませんでした。本質的にピアニスト的感性のほうが私には合うみたいです。声楽ではなく器楽,みたいな。
でもベートーベンの交響曲第四番は間延びしがちな曲をよく引き締めていると感じました。
(ざっと下まで目を通す)
・・・
なんとまあ盛り上がっていますね(笑)。
散発的にコメントさせていただきますと・・・
ベームのレクイエム(バイヤー版)よりホグウッド(モーンダー版)のほうがいいなぁ・・・(モーツァルトだけど)
フルトヴェングラーよりトスカニーニのほうがいいなぁ・・・(RCAの録音はめちゃ悪いけど)
あ,ここにコメントつけちゃいけないのか(笑)。
クライバー、クラシックに興味のある人の仲のそれも一部の人しか知らないでしょうね。なので、トシキさんが登場してしまいました。(笑)
アシュケナージは僕の好きなピアニストの一人です。ラフマニノフは聴いたことがありません。いつか...。ベートーヴェンの4番、いいですよね。
モツレク、ホグウッドも好きです。がーディナーもいいです。どうやらピリオド楽器を使った演奏が最近の好みと言えそうです。
フルトヴェングラーは、いい印象がありません。バイロイトの有名なベートーヴェン「第九」のライブ録音にしても、熱演といえば熱演なのですが、僕には、音楽が雑に感じられて...。ということもあって、トスカニーニはいいですね。NBC交響楽団とのコンビが一番良かったように思います。ワルターのコロンビア交響楽団という組み合わせも然りです。
コメント、どこでもいいですよ。嬉しいです。
あー私もです。中学生に80分は長すぎます(笑)。イタリアびいきらしきPapalinさんの「トスカニーニはいいですね」は割り引いてとるべきでしょうが,ベートーベンの奇数番交響曲はいい感じでした。はやい第九がとくに。オケがなんとか音楽の体をなさせようと必死なところが特に(サドの気が)。ワルターでは第五の第二楽章なんかが予想外に(予想通り?)よくて,梅雨の晴れ間の高原(例によって乗鞍とか霧が峰なんですが)ではあれが頭の中に鳴ります。
トスカニーニは、マリア・カラスを当時ティバルディの一人舞台だったスカラ座に推薦した人です。カラスひいきのPapalinとしては、トスカニーニ様さまとなるわけですが、彼の指揮による演奏は、どちらかというと感情を抑制し、作曲者が意図した音の再現に務めた感があります。それが当っているものと、そうでないものとがあるのは仕方のないことですね。ヴェルディのレクイエムを聴いていますが、なかなか良いです。
でもまあ私はどっちかというとドイツ派・ロシア派,声楽より器楽でして。ラフマニノフのヴォーカリーズだってチェロで弾いたほうがきれいじゃん!と思うたちです。ベートーヴェンのピアノソナタも#32より#31のほうが好きですけど,理由は「#32は人間くさすぎる」(笑)。#32の第二楽章を「人間の感情を表す漢字二文字で表すこと」は比較的容易ですけど,#31はもうちっと複雑かなと。そういえばさっきのヴェルディも序曲しか聴いたことないし(笑)。
とりとめもないおしゃべりですけど(笑)。
そういえば、トスカニーニのオペラは聞いたことがないと思います。ヴェルディもレクイエムだけ。どんな作品があるのか、ちょっと調べてみようっと。
Papalinも、もとは器楽屋です。演奏した楽器経験も、リコーダー、ユーフォニウム、トロンボーン、ファゴットと、みな管楽器です。(笑)