【クラシック音楽-004】 ミサ曲 と レクイエム

Papalinが合唱に憧れを抱いたのは、フォーレのレクイエムを聴いて、深い感銘を覚えたからです。
フォーレのレクイエムは、まさに神がかった、天上の音楽です。 In Paradisum(楽園にて)なんて、まるで天使か精霊が歌う歌ですよ、素晴らしい。と既にテンションは最高潮に達していますが、フォーレ42歳のときの傑作です。父の死を悼んで作られたレクイエム。奇しくも相次いで亡くした母の追悼もかねて初演されたようです。
殆どのミサ曲やレクイエムが、いわゆるラテン語のテクストを用いて作曲されているわけですが、同じ歌詞を用いていながら、よくもまぁこんなに沢山のミサ曲やレクイエムが書けたもんだなと、感心することしきりです。
例えは悪いですけれど、♪きみが~よ~は~♪という決まりきった歌詞で、いくつものメロディや和音を使って曲を作ることと同じですよね。これはすごいことです。何がすごいのか。
現に素晴らしいミサ曲が既にいくつもあったわけですよ。それらを知りながら、新たなものを作り出す...。私の考え過ぎかもしれないですが、それでも作曲家には目に見えないプレッシャーがあった筈ですよね。そうして作曲されたミサ曲ないしはレクイエムが、時の権力者(教皇や皇帝など)によって、気に入ったか、そうではなかったか、判断されるわけですよ。その作曲家がどれだけ神に対して敬虔であるかを主観的に計られるのです。これは大変なことです。
Papalinが好きなミサ曲は、レクイエムだと、モーツァルト、フォーレ、ヴェルディ、ブラームス(ドイツ語)そして、デュルフレを挙げたいですね。レクイエムでは、冒頭の入祭唱で"Requiem aeternam."(永遠の安息を。)という歌詞だけで、延々と歌われます。これもすごいことですね。続くキリエも"Kyrie eleison. Christe eleison."(主よ、憐れみたまえ。キリストよ、憐れみたまえ。)だけで延々と。
Papalinが好きなレクイエム(死者のためのミサ曲であって、鎮魂歌という訳はどうかと思う)以外の、通常の典礼文によるミサ曲としては、何といってもバッハのロ短調ミサ曲、続いてモーツァルトのハ短調大ミサ曲、戴冠ミサ曲、シューベルトのミサ曲第5番、そして大御所ブルックナーのホ短調ミサ曲、プーランクのト短調ミサ曲などなど、枚挙に暇がありません。そう、つい最近ブログに書いた「オペラ座の怪人」の作曲者:ロイド・ウェッバーもミサ曲を作曲しているのですよ。現代のモーツァルトと呼ばれるだけあって、これがまた美しく、かつしなやかでありながら力強い曲なのです。
ミサ曲のほかにも、グローリアやスターバト・マーテル、テ・デウム、カンタータ、オラトリオ、パッションなども含めたら、頭がパンクしそうなくらい、好きな曲を列挙することができます。
Papalinはキリスト教の信者ではないので、本当の意味のミサ曲の意味は理解できてはいないと思うのですが、宗教曲の素晴らしいところは、"祈る"という人間の美しい姿にメロディをつけたものであるということだと思っています。祈ること、信じること、それは尊ぶべきことだと思っていますし、敬意を表したいと思っています。
殆どのミサ曲はラテン語のテクストで書かれています。しかし、こうしたミサ曲を、教会で、宗教の儀式の中で聴くことは、今はできないのでしょうか。ミサ曲に凝っていたある時期、文献を読み漁っていましたが、その中で、「現代のキリスト教の教会における典礼では、ミサ曲が歌われることは殆どない。あるとしても、それは、ある時期から御触れがでて、母国語で歌うようになったため、ラテン語のミサ曲はコンサート以外では聴くことはできないであろう...。」みたいなことが書いてあり、非常にがっかりした覚えがあります。賛美歌もそうですが、日本語で歌われるのも、文語調で悪くはないのですが、やはり原語のもつ"音"とか"韻"とかがPapalinは好きです。
ミサ曲をコンサート・ホールでの演奏会で聴いたのは一回だけあります。サイトウキネン・フェスティバルでのバッハのロ短調ミサ曲でした。テノールのジョン・マーク・エインズリーの透き通るような声での歌唱が忘れられません。
遠くない未来に、Papalinの一人多重録音による、フォーレとモーツァルトのレクイエム、そして、体感ミサ曲を、IL DIVO "Papalin"で聴いていただきましょう。言ってることと演奏のレベルは、雲泥の差がありますが、話題性重視で...。
教会で、演奏会形式でミサ曲を聴くことはできるでしょう。そのような機会をじっくり待つことにします。そして、このブログを本田美奈子.さんに捧げます。Requiem aeternam.(永遠の安息を彼女に与えたまえ)
【写真】 アンドレ・クリュイタンス指揮 フォーレのレクイエムのCD(1962年)
![]() 多重唱(合唱) |

この記事へのコメント
このCDは、ここ何週間か私のnight cap替わりというか、一種tranqulizerとして手放せなかったものです。
ですから、CDジャケットの写真を見てほんとにびっくりいたしました。テレパシーかなにか飛んでるのでしょうか。
あまり驚いて、ブログの本文を読む前にこちらにすっ飛んできてしまったので,papalinさんがなんと言ってらっしゃるのか、まだわかりませんが、とにかく「この世」とは無縁な天上の美しさに満ちた曲です。
言葉が意味を失うほど妙なる音楽です。
このまま書き続けたら、tranquilizerどころか、きっと「眠眠打破」的効果になってしまいそうなので、とりあえず今夜はここまでに。おやすみなさい。
しかし、奇遇ですね。そう、パリ管弦楽団です。オーケストラと合唱の響きは、正直言うと、いま一つの感がありますが、指揮者のエネルギーと、独唱者の卓越した歌が、この演奏を引き締めていると思います。フォーレの数あるCDからあえてこれを選びました。
ブラームスもちゃんと入っています。ドイツ・レクイエムも傑作です。あえて3大レクイエムと書いたのは、ラテン語に拘ってみたからです。
ブログの写真のCD、バリトンはフィッシャー・ディスカウの若い頃の録音なのですが、艶のあるいい声をしています。ちなみにソプラノは、ヴィクトリア・デ・ロス・アンへレスです!
今、見てきました。
わたしも同じCDを持っています。
フィッシャーディースカウの声は、体が震えるほどです!
おはようございます。
この、レクイエムでディースカウやロス・アンへレスの歌声を聴くと、神様がいかに人間を精妙で妙なる楽器として創られたのかと感に堪えません。
どの楽器もそれぞれに素晴らしく、美しいのはもちろんですが、ほんとうに魂をつかんで揺すぶるのは、最終的には、人の声のような気が致します。
「楽器」を介して表現されるものと、自分の体そのものを直接つかって表現されるものの違いでしょうか?
papalinさんは、「リコーダーを演奏なさる時」と「歌われる時」と気持ちの上で違うことがありますか?
aostaさん、素晴らしい音楽家というのは、若い頃からその才を十分に発揮するものです。フィッシャーディスカウの歌には、若さゆえといえるような荒削りのところは何もありません。既に完成されているように思いました。
> papalinさんは、「リコーダーを演奏なさる時」と「歌われる時」と気持ちの上で違うことがありますか?
基本的には、気持ちは同じです。しかしながら歌のほうはリコーダーよりもへたくそなんで、大丈夫かなぁという不安な気持ちが+アルファされます。でも、これは、その楽曲に対する気持ちではないので、基本的にはやはり同じといっていいでしょうね。
更にいうと、管楽器は身体、息、横隔膜、そういったものを総動員して演奏するので、鍵盤楽器や弦楽器とはまた少し違うのかもしれません。
”In Paradisum”
慰めと平安が、静寂の中から手を差し伸べてくるような音楽です。
オルガンに続くハープもいっそうその静寂を深めているようです。
”Agnus dei”にいたっては、魂の奥底に触れるような弦の響きがそのまま”Libera Me”のバリトン独唱に続くみごとさ!低音弦の美しさ!
「泣きたくなるような美しさと清らかさ」です。ピチカートが、こんなにも心を揺さぶるものだとは、この曲を聴くまでついぞ知りえませんでした。
そして、先ほどの”In paradisum”・・・
papalinさんの言葉どうり、ここには、至高の「祈り」があります。
震えている魂にそっと触れる「祈り」です。
私が持っているのは、M・コルボ指揮によるローザンヌ声楽アンサンブルおよび器楽アンサンブルの「ロ短調ミサ・マニフィカトニ長調」の二枚組みCDです。
papalinさんもきっとお持ちですよね。
このライナー・ノーツには、この曲が「カトリック教会音楽の様式による<完全ミサ>(Missa tota)として書かれており、プロテスタント教会のための作品でないことは当然だが、作品全体の規模や細部の特徴から、純粋なカトリックの教会音楽とも認められない。」とありました。
この時代、時の権力者たちはその時その時のご都合によって、ある時はカトリックに、
そしてまたある時は、プロテスタントに、と信仰とは別のところで日和見的に乗り換えていたようです。
カトリックとかプロテスタントといったこの世の思惑から離れたところで神と対峙していた人だと思います。
そうだとすれば、バッハにとってこのミサ曲がカトリック的であるか否かは、大きな意味をもたなかったのではないでしょうか。
リベラ・メ、当然のことながら、僕も独唱していますが、メロディ後半の、大きなうねりを伴って上昇する音形、celliからterraへ歌詞が行き着くところですが、ゾクゾクしますね。当然のことながら、Papalin版はへたっぴです。(苦)
> カトリック的であるか否かは、大きな意味をもたなかったのではないでしょうか。
なるほどそうと言えますね。バッハは世俗から離れ、神と対話していた...。でも、そういうことは他の作曲家にも言えることではないでしょうか。一応その神は、キリスト曲における、父なる神ということで一致するのでしょうね。
バッハに限らず、音楽とは人智を越えた存在との対話かもしれませんね。
Bach h mollは生誕300年のときN響と6日連続コンサートを学生のとき合唱でやったのを覚えています。
2番は友人としばしばデュエットします。この曲は十字を切るようにできていますね。そして数字が緻密に曲の構成に関与していますね。Bachの秘密を知るのはとても楽しいです。人生の生きがいです。
ロスアンヘレス☆プレ王でどなたかが私の声を聴いて思いだしたとコメントしてくださってありましたが、実は私はお名前のみでまだ1度も聴いたことないのです。機会がございましたら聴きたいと思っております。
Angelさんは、バッハに詳しいのですか? 数字の秘密までご存知とは驚きです。そして、2番というと、ソプラノとメッゾとの重唱ですよね。すごいなぁ。今度聴かせて下さい。僕がメッゾですかね。(笑)
十字を切るように、の正体を今度教えてください。なんとなく予想はしているのですが、外れると痛いので、文字にはできません。(弱虫)
ロス・アンヘレス、似ているかなぁ。僕にはよくわかりませんが、細いレッジェーロの声ではないので、Angelさんとも似ているのかもしれませんね。Pie Jesus 素晴らしいですよ。機会がありましたら。
いつもコンサートのアンコール曲になっています。
18番(-_-;)これしかない。。。最後の音高いAsをpppで伸ばすのが決まればコンサートは成功です。が死活問題(ToT)Ah~~~←こんな顔しないと頑張れません。そういえばチャリティコンサート致します。今回はいつもより大きいホールですので料金ぐっと下げております。http://www.jkids.co.jp/read/koike/pla12.jpg
宜しければ是非どうぞ。
ロイドウェッバーの Pie Jesus がアンコールですか。は~、ため息が出ちゃいますね。僕はHosanna in exelsis も好きです。テノールなので。(笑)
今、聴いているのは、クリュイタンスではなく、J・Eガーディナー指揮、モンティヴェルディ合唱団によるものです。
これは、すばらしい!クリュイタンスは、私に初めてフォーレの美しさを教えてくれた演奏ですから大切にしたいのですが、「音楽」の完成度からいえば、ガーディナーは別格といってもいいでしょう。
適度な緊張をはらみながら、天上的な至福に満ちています。私の好きな言葉で言わせていただけるなら、アガペ的な高揚をもたらす音楽です。
元は音楽学者のガーディナーの指揮ですが、楽壇に登場した頃の、なんだかたどたどしい指揮ぶりが段々うせていって、今では大指揮者、そして実践的な大音楽家になりましたね。フォーレも代表作といっていいかと思いますが、もともと演奏活動のスタートは、モンティベルディ合唱団の合唱指揮だったのです。だから、歌入りの曲は、殆どが当合唱団となります。
演奏曲も、その名が示すように、ルネサンスやバロックを起源としていますが、フォーレやブラームスのレクイエム、そして「惑星」に至ったのには驚きましたね。
う~ん。ガーディナーの「惑星」には、正直言ってあまり触手が動きません。
私には、フォーレのガーディナーで、充分です。
女の子で「惑星」もしくはホルストが好きという子はいなかったような。
私もカラヤンのCDをもっています。
土星の絵がついた1981年の録音です。
papalinさんの聴かれたカラヤンはもう少し前の録音によるものでしょうね。
僕は当時、カラヤンの惑星を聴いて、カラヤンの四季を聴いて、カラヤンのジュピターを聴いて、全てが宇宙的、つまり地球規模的を超越していると感じ入りました。カラヤン、やっぱり尊敬してますね。うんうん。
真っ暗な月の地平から、「ツァラストラはかく語りき」の圧倒的な音楽とともに、巨大な地球が昇ってくる(逆でしたかしら?なにしろ大昔の記憶です)あのシーン。音楽と映像があんなにもみごとに出会ったのは、私にとってまさに初めての経験です。
宇宙ステーションが優雅に回る場面で使われていたのが、ヨハン・シュトラウスだったというのも衝撃でした。今はない京橋セントラルで見た忘れがたい映画です。
リヒャルト・シュトラウスの名曲「ツァラトストラはかく語りき」は、20世紀の名曲です。宇宙でのJ.シュトラウスの「美しき青きドナウ」も、名曲です! こういう名曲を使えた映画、果報者です。
でもね、京橋セントラルって映画好人間にとって、ひとつのエポックなんですよ。
確か、この「2001年宇宙の旅」をもって閉館となったはずです。なんだか、寂しくて銀座まで一人で歩いたことを思い出しました。
少なくとも、papalinさんもその名を知っていらっしゃる。往年の”大”名画座です。
”初公開“で見ていたとしたらそれこそ「お年」のかたです。
キューブリック、最初からこれらの曲を使うつもりはなく、しかるべき作曲家にオリジナルを依頼していたそうです。(この作曲家も有名な人だったはずですが・・・思い出せません)
この、幻の「2001年宇宙の旅」は当時の、前衛的で無機的な音を使った、なかなか面白い曲です。
ところが、ふたをあけてみたら、誰の了解もないまま監督の独断でまったく別の曲に差し替えられていたというわけです。
確かこのエピソード、何年か前にNHKのドキュメンタリー番組かなにかで放映されたはずです。
papalinさん、ごらんになりました?
★京橋セントラルは名前しか知りません。
★2001年宇宙の旅は、僕の場合は音楽しか
知りません。R.シュトラウスの名作ですね。
映画にそんなエピソードがあったのですか。
その作曲家、提訴しなかったの? 気がふれちゃう。
気がついていただいて嬉しいです。
でも、もう12時を回りました。いつもなら、もうお休みの時間ですね。
週末、いろいろご予定もおありでしょう。早めに休まれて明日に備えてください。
2003年コルボの演奏で感動
12月の暮やっと抑えた席は3階の末席
私の頭上はすぐ天井、音楽はまさに天上の音楽でした。(座布団ください!)
それはそれは清らかな空気に会場は包まれました。
それですっかりコルボファンになってしまいました。
コルボのバッハミサ曲ロ短調これも生で10年前くらい?に聴きました。
CDでは1996年版のあの冒頭がだいすきです。
あの冒頭に私は風を感じます。心疲れたときにはあの音楽がききたくなります・・というより 風を感じたいというような気持ちです。
昨年はマタイ。偶然が必然となった気がしてはるばる聴きにいっちゃいました。
今年は5月連休のあの『熱狂の日 コンサート』にコルボのモーツアルト『ミサ曲ハ短調』聴きに行きます。なんとかぶりつき席。かぶりついてる人をみかけたら私だと思ってください!
CDでは1996年版のあの冒頭がだいすきです。
あの冒頭に私は風を感じます。心疲れたときにはあの音楽がききたくなります・・というより 風を感じたいというような気持ちです。
おとのしずくさん、なんだか自分が書いたコメントを読んでいるような不思議な気持ちになってしいまいました。
あの「ロ短調ミサ」を聞いたときの「感じ方」そして言葉の選び方、もしかしたら失礼な感想なのかも知れませんが、本当に良く似た同じような感性。
おまけにコルボ。(もっとも、私はCDでしか知りませんが)
もうひとつおまけに、先日まで読んでいたのがJ・モノーの『偶然と必然』。難しすぎて途中放棄してしまいまったのですが、同じ言葉を、おとのしずくさんのコメントに発見してやっぱり驚き!
最近私には、この「偶然」がやたらと多いのです。
こらは「必然」でしょうか???
最近も仲のよい友達とまったく同じ時間の同じ音楽を聴いてるとか続きました。
はじめてのときには『まぁ偶然ね~きがあうね~』といってたのが2回も続くと『・・・・まぁ気味が悪い』という風になりますね。
コルボの感じ方にてますか?光栄です。
『偶然に必然を感じて・・ バッハがきっとわたしを呼んでいる~~いまマタイを聴かなきゃ』とかいって、これを口実に家族にいい訳してちゃっかり東京までコンサートいっちゃいました。
偶然を必然に変えていくことも大切かもしれませんね。(←おもいこみ)
そうおもったら大事にしましょう!
そしてその『必然』が、新しい何かを開いていくものになるやもしれません。
私はこの『必然』という言葉、そしてこの言葉が持つ音(響き方)が好きです。
偶然に流されるのではない、自分の意志”will”による積極的な選びを感じるからです。
> 偶然を必然に変えていくことも 大切かもしれませんね・・・
おとのしずくさんのこの言葉、本当に同感いたします。
田舎のコンサートホールのメリット・・・それは、2階席、3階席の最前列は、最高に音響がいいという点です。これ、皆さん案外知らない。あまり教えたくないのですが、たとえば岡谷カノラホールの3階席は、ヨーロッパのオペラハウスだと、一階席の頭上の一番響くところに席があるようなもの。とてもいいです。オペラグラスが必携ですが、値段が安くていい席なのですから、それはもうお得な気分です。
ロ短調ミサ曲は、僕はサイトウキネンの演奏を聴きました。ジョン・マーク・エインズリーのテノールの声に嫉妬してしまいました。もちろんマタイも素晴らしいですよね。
はい、私も感じておりました。この二人の感性にお返事を差し上げるのは至難の技。でも、コメンテイター同士の間でのコメントのやり取りまでPapalinが首を突っ込むのは、全てのコメントに、頂いた感謝の気持ちを表したいという、僕のこだわりです。
いいこだわりでしょう? 迷惑なら止めてもいいのですが...。(嘘)
偶然なんてないんですよ。全て必然なのです。そう考えると、おとのしずくさんが、Papalinの生活や、信条や、大事にしているものを何気なく言い当てる・・・これは偶然ではなくて、必然なのです。そう考えると、先々が明るくなりませんか?
西洋音楽の知識もなく五線譜読みすらあやしい私、むずかしいクラシック話にはいつも到底首を突っ込むことが出来ません。掲示版は 書き込みがいつまでも残る というのも知識もなく小心者の私には怖いという感覚がありHPめぐりをしても音楽掲示版には書き込むことはほとんどないです。(ここももちろんすぐ立ち去る気でいました)
ですから papalinさんがみえない糸で私を操っているのでは?私おびき寄せられた?と思ってしまいますまんまと私はまりそうですよぉ
>偶然に流されるのではない、自分の意志”による積極的な選びを
ふむふむとうなずきながら感動してコメント読ませていただいてます。
『偶然』がおこるとき、私はいろいろとじぶんにいいようにこじつけをして解釈してしまいます。そこから連鎖して繋げて行き、一連のことがストンと何処かで納得できるものを見つけて感動し悦に浸るのがすきなのだとおもいます。
『こじつけ妄想癖』と解釈してます(自爆
家族は『あ~~またはじまったよ。。。』と呆れたように眺めてます。
『時の少女』と素晴らしく称え微笑んで眺めてくれる友人の言葉が支えです。
>西洋音楽の知識もなく五線譜読みすらあやしい私、むずかしいクラシック話にはいつも到底首を突っ込むことが出来ません。
この部分、まったく同じです。
「好き」というなんともあいまいで言いようのない
感情に突き動かされるように聴く。
ただそれだけで、他にはなにもありません。
にもかかわらず「音楽」が与えてくれる喜びと慰めの何と豊かなことでしょう。
私が、このPapalinさんのブログに惹かれ、初めてのPCと格闘しながら書き込みに挑戦したのも、そこに音楽を感じたから。
Papalinさんはじめ、音楽を愛する人たちがいらしたから・・・
おびき寄せられたのは、おとのしずくさんだけではないようですね(笑い)
いいな~。すごく楽しみなGWになりますね。モーツァルトが、この曲をもし完成させていたら、演奏するのに何時間かかったでしょうか。レクイエムもとても愛すべき曲ですが、このミサ曲もたまんないですよね。ソプラノとアルトの掛け合いの第2曲。そういえば、このブログでご紹介した天使♪さん。何度歌ったことかっておっしゃっていました。スゴイ人です。
座布団はまだまだですね。かぶりつきの前列はPapalinも大好きです。スカートの ・・・ やめとこ。
実は、私もお二人の感性って近そうだなと感じていました。aostaさんは、自分を見ているようだとおっしゃるし、僕は自分を見られているようだと言ったし、おとのしずくさんは、やっぱり来るべくしてここに来たのですよ。間違いありません。僕も「驚き」の連続ですからね。
これ、Papalinの得意技です。古株の皆さんはもうご存知でしょうけれど、運命とか偶然とか奇跡とか、そういうものすべてを、なるべくしてなったとか、必然であったとか、そう信じ込んでしまうのです。それがPapalinの強みでもあり、弱みでもあり。ただ、変な○○商法などには引っかからないように、細心の注意を払っています。それと、人前で必然を言うときには、やっぱり言ってもいい相手かどうかは考えますね。間違うと本当のアホかと思われるんで。(笑)
なるほど、必然とは選ぶという能動形の行為になるのですね。ためになるブログだなぁ。語彙力にかなりのコンプレックスを持っている僕としては、本当にそう思っているわけですよ~。
いいぢゃないですか。はまっちゃえば。(笑) このブログやわが家のホームページが、おとのしずくさんの安住の地かも知れませんしね。もしそうであったなら、こんなに嬉しいことはないですよ。このブログの住人は皆さんとても魅力的。会ったことがなくても、それは十分感じ取れます。そして皆さん頭脳明晰。脳年齢が20歳ですよ。しかもみんな。すごいよね~。そういう暖かな方々が、自由奔放なPapalinを優しく導いて下さっているのです。おとのしずくさん、もちろんみんな大歓迎です。(ホロ)
これがまさに「腑に落ちる」ってことなのでしょう。いろいろな言葉で、その人なりに表現されますが、例えば、収まりのいいところに落ち着いたとか...。でも、このおとのしずくさんの表現が僕は好きですね。本当にストンと腑に落ちたって感じがしますものね。
僕はただ、夏の虫さんたちが好みそうなお香を焚いただけです。みなさまが、ご自分の"意志"でもって、そのお香の素晴らしさにつられて、素晴らしさにつられて、すばらしさに・・・・・しつこい? を嗅ぎに来られたのですね。偶然とか何とかじゃなくて、必然でしょうし、皆さんの嗅覚と、僕が身につけたオードトワレの香りがマッチしたということでしょう。
好きか、嫌いか、音楽って突き詰めていけば、それだけだと思います。そこに理屈は必要ありません。