《本のレビュー》 『カトリックとプロテスタント』 ・・・ ホセ・ヨンパルト
このテーマで語るには、十年早いと思うのですが、予告通り、一番相応しい日に書きます。

私が敬愛する音楽、それも、西洋の音楽についての理解を深めるためには、ヨーロッパの歴史を知らなくてはいけません。その歴史の中で、いつの時代においても、とりわけ重要であるのが、ほかでもないキリスト教でしょう。
うんちくを抜きにして、キリスト教における音楽、それも宗教音楽と呼ばれる、キリスト教の典礼や式典に用いられたり、あるいは時代を経るにしたがって、よりコンサート向きの音楽と変わっていったものの、それでもテクストは以前のままのラテン語の言葉をそのまま用いたミサ曲、死者のためのミサ曲(レクイエム)。そういう音楽に、すっかり、とりつかれてしまいました。
うんちくなしに、とても好きな音楽なのですから、仕方ありません。(?) 天上の宴とか、天上の響き、天上の調べ...どれをとっても、私を揺り動かすに十分な言葉となってしまいました。フォーレのレクイエムに興味を持ってからということになりますから、かれこれ15年になろうとしています。
というわけで、今回はキリスト教の中身について、それも、僕が一番疑問に思っていた表題の件について、そのものズバリのタイトルの本に出会えましたので、早速読破しました。

私のようなキリスト者でないものにとっても、クリスマスとは? なぜケーキを食べるの? なぜプレゼントを贈ったり、交換したりするの? こういうこと、意外と知らないですよね。知らないのはPapalinだけかも知れませんが、私は今日、プロテスタントのクリスマスのお祝いに出席することができたのですが、やはりクリスマスとは、父の子にして人間の姿となられて降誕され、人間の罪を背負って人間に殺され、そして復活されて永遠のものとなられた、主イエス・キリストの誕生を祝すためのものである...ということを改めて確認しました。
私の興味の対象であるキリスト教の音楽は、殆どがカトリックの音楽であるようです。その理由は、プロテスタントには、いわゆる形式に則ったミサがない。なので、ミサ曲がないのだそうです。でも、今日もそうでしたが、きよしこの夜とか、諸人こぞりてとか、いわゆるクリスマスの歌は歌うのですね。《みんなで歌う聖歌》すなわちコラールとは、主としてプロテスタントの音楽のことを指すのですね。(注:カトリックのコラールは、いわゆる大勢のユニゾンで歌う、グレゴリオ聖歌のことだそうです。我々一般人が知っているコラールは、殆どがプロテスタントの音楽だと思ってよいようです。)
このブログを書くに当たって、文献(主として音楽之友社の合唱事典)を少しだけ調べました。そしてこういったことを知ったとき、私は目からうろこが落ちました。(polo) そして、プロテスタントの受難曲(パッション)も存在するということ、何も知りませんでしたね。また、マルティン・ルターは、私が愛しているルネサンス時代の大音楽家、ジョスカン・デ・プレと親交があったようです。こういうことは、世界史を学んでいるだけでは、絶対に出てきません。音楽と信仰の横のつながり、そうだったのっていう史実が次々と明らかになっていくのは楽しみの一つでもあります。
カトリックの教会にいらしゃるのが神父であり、プロテスタントは牧師と呼びます。
カトリックの神父は、神に使える役職であり、結婚しません。修道女も然りです。
一方、プロテスタントの牧師は家族と家庭を持ちます。
カトリックは、キリストが作った教会の中で、人間が直接キリストと結ばれるという考え方であり、制度なのですね。全世界広しといえども、教会は唯一のもの。どの国でも、どの地方でも、一つの論理的で物理的な教会であるという考え方です。一方、プロテスタントは、幾つかの宗派があり、その宗派ごとに異なるプロテスタント教会があるようです。そして、プロテスタントは、カトリックや他の宗教が認めている旧約聖書のほかには、唯一、新約聖書のみを認めています。よく、ペテロだとかパウロだとかマタイだとか、様々な聖人がいるのはカトリック。プロテスタントに聖人の考え方はないようです。
一般常識に近いものをいくつか挙げてみましたが、両者ともそれぞれちゃんとした理由、考え方に基づいているのです。そういう背景が、広く浅く紹介されているのが、この本の特長だと思います。ここでは割愛させて頂きます。
要は、それぞれの道を歩んできたこの大きな二つの流れが、いま合流しようとしているようです。全く同じ唯一の神、全く同じキリスト、カトリックでもプロテスタントでもない、そうであるが前に「キリスト教」であること。これらは全て共通のものなのです。16世紀のルター、カルビンの登場により、袂を分かち合った両者が、統一しようではないかという動きがあるようです。4世紀以上も別々の道を歩んできた両者が一つになるには、考え方まで変えないといけないことがたくさんあるように思います。果たして、人類のキリスト者の積年の問題が解決できるでしょうか。
最後に、僕が改めて感じたこと、それは、人間が祈る姿は美しい。それは、キリスト教だけでなく、他の宗教でも同じだと思います。信ずる心、祈る姿、そうしたものを、僕は尊いものだと思っています。
【写真】 12/25 八ヶ岳中央高原キリスト教会(ノルウェー)でのクリスマス祝会

私が敬愛する音楽、それも、西洋の音楽についての理解を深めるためには、ヨーロッパの歴史を知らなくてはいけません。その歴史の中で、いつの時代においても、とりわけ重要であるのが、ほかでもないキリスト教でしょう。
うんちくを抜きにして、キリスト教における音楽、それも宗教音楽と呼ばれる、キリスト教の典礼や式典に用いられたり、あるいは時代を経るにしたがって、よりコンサート向きの音楽と変わっていったものの、それでもテクストは以前のままのラテン語の言葉をそのまま用いたミサ曲、死者のためのミサ曲(レクイエム)。そういう音楽に、すっかり、とりつかれてしまいました。
うんちくなしに、とても好きな音楽なのですから、仕方ありません。(?) 天上の宴とか、天上の響き、天上の調べ...どれをとっても、私を揺り動かすに十分な言葉となってしまいました。フォーレのレクイエムに興味を持ってからということになりますから、かれこれ15年になろうとしています。
というわけで、今回はキリスト教の中身について、それも、僕が一番疑問に思っていた表題の件について、そのものズバリのタイトルの本に出会えましたので、早速読破しました。

私のようなキリスト者でないものにとっても、クリスマスとは? なぜケーキを食べるの? なぜプレゼントを贈ったり、交換したりするの? こういうこと、意外と知らないですよね。知らないのはPapalinだけかも知れませんが、私は今日、プロテスタントのクリスマスのお祝いに出席することができたのですが、やはりクリスマスとは、父の子にして人間の姿となられて降誕され、人間の罪を背負って人間に殺され、そして復活されて永遠のものとなられた、主イエス・キリストの誕生を祝すためのものである...ということを改めて確認しました。
私の興味の対象であるキリスト教の音楽は、殆どがカトリックの音楽であるようです。その理由は、プロテスタントには、いわゆる形式に則ったミサがない。なので、ミサ曲がないのだそうです。でも、今日もそうでしたが、きよしこの夜とか、諸人こぞりてとか、いわゆるクリスマスの歌は歌うのですね。《みんなで歌う聖歌》すなわちコラールとは、主としてプロテスタントの音楽のことを指すのですね。(注:カトリックのコラールは、いわゆる大勢のユニゾンで歌う、グレゴリオ聖歌のことだそうです。我々一般人が知っているコラールは、殆どがプロテスタントの音楽だと思ってよいようです。)
このブログを書くに当たって、文献(主として音楽之友社の合唱事典)を少しだけ調べました。そしてこういったことを知ったとき、私は目からうろこが落ちました。(polo) そして、プロテスタントの受難曲(パッション)も存在するということ、何も知りませんでしたね。また、マルティン・ルターは、私が愛しているルネサンス時代の大音楽家、ジョスカン・デ・プレと親交があったようです。こういうことは、世界史を学んでいるだけでは、絶対に出てきません。音楽と信仰の横のつながり、そうだったのっていう史実が次々と明らかになっていくのは楽しみの一つでもあります。
カトリックの教会にいらしゃるのが神父であり、プロテスタントは牧師と呼びます。
カトリックの神父は、神に使える役職であり、結婚しません。修道女も然りです。
一方、プロテスタントの牧師は家族と家庭を持ちます。
カトリックは、キリストが作った教会の中で、人間が直接キリストと結ばれるという考え方であり、制度なのですね。全世界広しといえども、教会は唯一のもの。どの国でも、どの地方でも、一つの論理的で物理的な教会であるという考え方です。一方、プロテスタントは、幾つかの宗派があり、その宗派ごとに異なるプロテスタント教会があるようです。そして、プロテスタントは、カトリックや他の宗教が認めている旧約聖書のほかには、唯一、新約聖書のみを認めています。よく、ペテロだとかパウロだとかマタイだとか、様々な聖人がいるのはカトリック。プロテスタントに聖人の考え方はないようです。

要は、それぞれの道を歩んできたこの大きな二つの流れが、いま合流しようとしているようです。全く同じ唯一の神、全く同じキリスト、カトリックでもプロテスタントでもない、そうであるが前に「キリスト教」であること。これらは全て共通のものなのです。16世紀のルター、カルビンの登場により、袂を分かち合った両者が、統一しようではないかという動きがあるようです。4世紀以上も別々の道を歩んできた両者が一つになるには、考え方まで変えないといけないことがたくさんあるように思います。果たして、人類のキリスト者の積年の問題が解決できるでしょうか。
最後に、僕が改めて感じたこと、それは、人間が祈る姿は美しい。それは、キリスト教だけでなく、他の宗教でも同じだと思います。信ずる心、祈る姿、そうしたものを、僕は尊いものだと思っています。
【写真】 12/25 八ヶ岳中央高原キリスト教会(ノルウェー)でのクリスマス祝会
この記事へのコメント
(イスカリオテのユダを除く)の間違いです。
カトリックとプロテスタントの一番大きな違いは、
「教皇制」を認めるか否か、という点にあるように思います。
カトリックにおける「教皇」もしくは「法王」はカトリック教会のヒエラルキーの頂点に立つものです
が、この「教皇」の権威を、神から与えられた誤謬なきものとするカトリックに対し、神と人との間に介在する人的な権威を認めず、あるのはただ聖書のみという観点に立つのがプロテスタントだと思います。
いかんせん、私の知識はすでにいにしえのものです。勘違い、記憶違いからは逃れられません。
お手元のテキストで、一応確認をお願いいたします。
あまりにも、大きすぎるテーマです。
あまりにも、難しすぎるテーマです。
既に、旧約聖書は、カトリックもプロテスタントも拠り所としているということが大前提で、その上で、プロテスタントは他には新約聖書のみを認めているのに対し、カトリックは、教会の制度や、聖体、多くの聖人、それからなんでしたっけ、秘蹟にかかわるさまざまな出来事や、その教え、由来、さらには聖母マリアについても、認めているというか、崇拝している...という違いを言いたかったのです。
さて、aostaさんのその知識の素晴らしさはだれもが認めるところかと思います。それは、ちゃんとした教育を受けられた、そしてあなたがそれに興味深く傾注したということなのですね。すうっと、喉を通りました。納得です。
何だか宗教の中身に入り込みすぎちゃって、読者の方も弾いてしまったかもしれませんが、僕のキリスト教に対する切り口は、あくまで「音楽」という窓から見たキリスト教なのです。
この本を読んで気がついたのは、同じキリスト教の中でも、音楽を発展させたのは「教会」であるということに気づきました。当たり前といえば当たり前なんですけれど。(笑)
今日は、余韻を味わいながら片づけをしています。数々のクリスマスグッズも1年の眠りにつきます。最もお気に入りものは、年間通じて飾っています。
ミュージアム・コンサートも企画されていて、リコーダーとバロック・バイオリンなどのコンサートがあったようです。その日は、ありませんでしたが、聴きたかったなと思いました。
観て楽しい絵は、印象派の自然を題材にしたのがやはりいいなあと思いました。
> あまりにも、大きすぎるテーマです。あまりにも、難しすぎるテーマです。
私でさえ十年早いと思いましたので、神学を勉強されたaostaさんの言葉は重みがあります。
Papalinは、もともと、感覚的に"いいものはいい"という人間なので、優れた幾つかの宗教曲は"いい"のです。それを深追いしようと思ったのですが、やはりPapalinには難しゅうございました。ただ、幾つかの発見、へ~というのがあったので、重たい名前の本ではありましたが、著者であるヨンパルトさんの、わかりやすく、わかりやすく、というご苦労が実を結び、さっと読むことができました。2度目はゆっくり読みます。
> 最もお気に入りものは、年間通じて飾っています。
それはそれは、いいですね。よく冬休みに欧州を旅したのですが、欧州でも、クリスマスの4週前から新年まで、ずっとクリスマス&ニュー・イヤーです。もちろんクリスマスのデコレーションも、年明けまで片付けません。日本はすぐとって、門松、注連飾り、お供え餅に変わってしまいますね。(笑)
> あまりに重厚なので、お腹がいっぱいになった気分と言ってました。
息子さんの情操面は、すばらしいですね。食べ物以外の芸術、文化、自然、宇宙、そういうものを初めて、見る目を持って見て、こういう感想がいえること、素晴らしいと思います。そういう感性、ずっと持っていてほしい。大人になると、意識していないとふと忘れちゃうから。
「母子像」の絵なのですが、絵だけでなく、像や、モザイク画まで含めたら、世の中にいくつ存在するでしょう。
僕が以前、単身赴任していた東北地方のとある街の教会を訪れたときに、木彫りの、黒いマリア像がありました。とても珍しいと思いました。
クリスマスの飾り付けですが、25日までですかね。イルミネーションなどは、1、2月もやってるところはありますが、やはりツリーなどは姿を消しますね。
西洋のクリスマスは、日本の年越し、お正月の行事に匹敵するのでしょうね。だから年越しは、わりとあっさりしてますもんね。デパートの変わり身は早く、遅れてクリスマス気分を味わおうと街に出て、さびしい気持ちになったことがあります。26、7日のことだったかな。(当たり前ですかね)
ブログはあとでゆっくり読ませてもらいますね。
今はまだクリスマスプレゼントの余韻に浸っている私です。
d('-^o)☆スペシャルサンクス☆(o^-')b
最初のコメントで、「新薬聖書」とありますが、当然のこと「新約聖書」の間違いですので、まずは、訂正まで(汗!)
>プロテスタントは「新約聖書」しか認めない・・・
の解釈についての説明、とてもよくわかりました。
papalinさんの理解で、正解だと思います。
私のほうこそ「早飲み込み」でしたね。
「速読」は私の特技かもしれませんが、ときに早飲み込みや、知ってるつもりが災いして的外れになることも多いaostaです。ひらにご容赦のほど、お願いいたします。
もうひとつだけ、付け加えさせていただけますか?
>カトリックは教会の制度や聖体、多くの聖人・・・について、認めている
と書かれている「聖体」についてですが、カトリックは「聖体」を認めているが、プロテスタントでは「聖体」をみとめていない。papalinさんが言われた意味はこういうことでしょうか?
私の考えは、ちょっと異なりますので、ご参考までに。
カトリックの「聖体拝領」、プロテスタントの「聖餐式」は、神父や牧師によって一人ひとりに分けられたパンとぶどう酒を、キリストの死の記念としていただく、大切な儀式ですが、この「聖体」を文字通り、「象徴」として扱うプロテスタントに対し、カトリックでは「聖体」はまさにキリストの生身のからだそのものを意味します。
第三者から見れば、そう大きな違いはないと思われるかもしれませんが、「キリストのからだ」を頂く信者にとっては、それが「象徴」なのか、それとも、霊的な変化を経て実態となった「キリストの身体」なのかの違いは大きいと思われます。
いずれにしても、カトリック、プロテスタントを問わず、解釈の違いこそあれ、「聖体」そのものは、両者ともに認めているものだと私は思うのですが。
>音楽を発展させたのは「教会」であることに気がつきました。
16世紀初頭、ルターが宗教改革の狼煙をあげるまで、キリスト教会はすなわち、カトリック教会のこ
とでした。そして、教会の中で音楽は芸術のなかで、「最も霊的なもの」と位置づけられていました。
「歌」は「祈り」であり、単旋律で声を合わせて歌うことは、そのまま「心を合わせて歌うこと」「心を合わせて祈ること」でもあったのです。
「西洋音楽」は、この教会音楽から始まります。
papalinさんの仰るとおりですね。
単身赴任は、特別の目的があったので、2002年の12
月からの3ヶ月でした。日本海沿いの街。3ヶ月いた間に、太陽を見たのはたったの3日程度でしたね。出勤時の朝7時頃も、車のライトを点けて走りましたよ。
日本では、25日には、ケーキがお安くなりますので狙い目ですね。これからクリスマス・年末商戦となります。僕もメーカー勤めなので、この商戦に勝たなければなりません。
でも、25日に行った教会の牧師さんは、こうした風潮が日本だけでなく、英国でも見られるようになったことを非常に残念だと仰っていました。
「神学」はないですよ。
「キリスト教学」は、いわば「概論のようなもので、表層の部分を少しかじっただけです。
私はたまたま小さいころから、どちらかといえばキリスト教的な雰囲気のなかで育ったたためか、ほかの人より宗教や信仰といったものに対する関心が強いのかもしれません。
とはいえ、いわゆる「ご利益信心」は信じません。
最近のもっぱらの興味は、中沢新一さんにあります。講談社選書の「カイエ・ソバージュ」シリーズの中の「人類最古の哲学」「愛と経済のロゴス」、青土社の「哲学の東北」などなど・・・汎神論的観点からの非常に面白い本です。
意表をつかれたのが、「アースダイバー」!
「洪積層」と「沖積層」の「時代の記憶」がいまだに街としてのありかたを支配する「東京」の不思議。縄文地図から読み取る野生の東京。(なんだか新刊書の宣伝みたい)
お勧めの一冊です。
さて、哲学に走っていますね。僕の名前の一字が入っています。僕は何でこの字をつけられたのか、とうとうちゃんと両親に聴く前に、その機会を逸してしまいました。両親がつけた名前であることは確かのようなのですが、私の両親がとりわけ哲学に興味を持っていたとも思えません。希望的な意味でつけられたのかな?
読後感想をまた聴かせて下さいな。
今度のキラキラは、なんと左右対称ですね。業師ですね。
今回の場合は、冷静に第三者的に見て、私の原文の言葉足らずでした。ご指摘をありがたく思っています。
私が一人で話を重くしているような気がします。
ごめんなさい。
「聖体」の話、普通ここまで関心を持って読む人は少ないと思います。papalinさんの知的好奇心が、強いということですよね。
結婚して、欧州に旅に行きました。古い小さな町や村の教会を訪れました。そこで一番初めに口を注いででてきたメロディは、中世ヨーロッパの、単旋律の、グレゴリアンチャントでした。神聖な場所、祈りの場としての教会に、なんて相応しい音楽なんだろうと、そのときに思いました。
以来、日本人の観光客が訪れないような、小さな街や村の教会や修道院を訪れるのが楽しみでした。
一番最近では、2001年のイタリアはカプリ島の修道院。そこで僕は、ブルックナーを歌いました。誰もいない聖堂に響く僕の声。ナルシストにならないわけがありません。
コラールは、確かにあの宗教改革のカルビン・ルターによって広められたものです。さすがによくご存知ですね。ルターは、それまで受身であった人々を
積極的に礼拝に参加させようとして、その一つの手段として、みんあで歌う聖歌、すなわちコラールを歌い事を奨励したんですね。彼の地、ドイツの人々の誰もが歌えるように、いろいろな手を使っています。有名な曲を、ドイツ語で歌えるようにしたり、グレゴリアン・チャントの旋律をコラール風に仕立て直したり、宗教改革以前から人々に親しまれてきた宗教的民謡の歌詞を部分的に変えたり、付け加えたりなんかして、身近なものにしたのですね。
コラールは、プロテスタントの努力の賜物です。aostaさんの知識は正しいのです。
ブクステフーデは、オルガン弾きでもあり、作曲家でもあった人ですよね。彼もプロテスタントだったのでしょうか? ヘンデルは、イギリス国教会? 時代が違う? その辺りの知識は僕にはないです。
このブログで、変に封印せずに、実は僕の中には、このブログの続編のアイディアがもうあって、それも書きますが、その際にも、僕の思い込みによって過て書かれているところがあれば、指摘して直して頂きたいし、解説を加えてもらいたいと思っています。
頼りにしていますよ、aostaさん!
カプリ島の修道院で歌われたのは、ブルックナーのミサ曲だったのでしょうか。
誰もいない修道院に響き渡る歌声。
papalinさんならずともナルシストになるのではありませんか?
今年の春に訪れたNZのクライストチャーチ(何という素敵な名前でしょう)では、大聖堂にしかいかなかったので、周りに人が沢山いたので、ハミングにしておきました。モーツァルトでした。
ヘンデルが英国国教会だったか?これは、私も考えたことがありませんでした。
そもそも英国国教会が成立したのは、離婚問題がこじれてヴァチカンと決裂したヘンリー8世の時代でしたよね。彼とアン・ブーリン(アン・ボレイン)のむすめであるエリザベス1世が即位したのが確か1600年ころでした。
ヘンデルが英国に来たのはいつでしたかしら。
王室おかかえの音楽家とあれば、そして1600年以降であれば、国教会に改宗したとも考えられますね。調べてみます。
ヘンデルは1685年うまれでした。
ということは、英国国教会の信者であった可能性は高いかもしれませんね。
最終的にイギリスに帰化したようですし・・・
ブクステフーデ、生年はヘンデルより50年ほど早いようです。
宗教改革以降であることは確かですね。
ネットで調べても、彼がプロテスタントであったか否かについての言及はありませんでした。
でも、コラールも作曲していますし私としては、プロテスタントかな、とも思います。
「暁の星のいかに美しく」、大好きなコラールです。
早すぎます!私が一生懸命調べているのに。
生まれ年、覚えていらっしゃるんですね!信じられません。ほかの音楽家の生年も記憶していらっしゃるのですか?
ヘンデルがイギリスに渡ったのは、18世紀です。なので、英国国教会で合っていそうですね。ヘンデルはドイツの作曲家ですが、それは、生まれた地、少年時代をすごした地であり、彼が活躍したのは、イタリアを経て渡ったイギリスです。彼はドイツにいなくてよかった。きっと、バッハの影に埋もれちゃったでしょう。テレマンのように。
私のコメントなんだか間が抜けてしまいます。
25日は、正にクリスマス!ケーキはお安くはなってません。正価です。
作り置きのケーキではないですからね。
ただ悲しいことに我が息子が、インフルエンザになってしまい、クリスマスケーキが半ホール冷蔵庫に残ったままです。かわいそうなケーキ君。
息子は、25日には、お母様の手料理でお腹がいっぱいになり、「ケーキは明日食べるよ」と言ったのです。
次の日、彼は発病し、2日間お粥しか食べてません。みなさん、お気をつけください。
少し前のコメントにセンターも近いということを書いていらっしゃいましたよね?
その息子さんでしょうか?お子様以上にlavieさんご自身がどんなに心を痛めていらっしゃることでしょう。
一日も早いご回復を祈っています。
体調がわるかったり、疲れていたりで、インフルエンザご自分がもらってしまわないように、お気をつけくださいね。
当たり前のことですが、暖かくて、栄養のある、おなかに優しいお食事を息子さんに用意なさるのは、lavieさんなのですから。
くれぐれもご自愛ください。
でも、一つ新たな教訓もできました。私のお返事は、今みたいに、時間を経てからのほうがいい場合もある。でも、すぐ帰ってくるお返事も悪くないと思いますが。
そうでしたか。ケーキのピークは24日で、25日には既にセールとなる気がしましたが、それは、フランチャイズのケーキ屋さんや、デパートでのお話ですかね。
その、”あお”ちゃんという言い方は、にがてです。なんだか、牛か馬になったような気がするのですが・・・
papalinさんが、気に入ってらっしゃるのならどうしてもとは言いませんが。
素敵な美術展に行かれたのですね。バロックからロココ・・・確かに「お腹がいっぱいになる」感じがいたします(笑)
もともと、「バロック」という言葉には”過剰な”と言う意味もあるようですね。バロック音楽はともかく、絵画になると私にもちょっと重いです。
ルーベンス、フランドルの巨匠ですが、個人的にはフェルメールが好きです。
最近「フェルメール展」も開催され人気が出たフェルメールですが、1980年ころに国立西洋美術館で催された「ドレスデン美術館展」以来のファンです。
ルーベンスとフェルメール、同じ時代の作品とは思えないほど雰囲気が違います。
同じ「低地地方」でもルーベンスはカトリック的スペインの圧制のもとにあった、フランドルの人であり、かたや、フェルメールはスペインから独立を勝ち取りプロテスタンティズムが盛んであったオランダの人です。
同時代を生きながら、背景にある歴史や、思想によっても芸術のあり方が大きく違ってくるのかもしれませんね。
「低地地方」今のオランダです。
スペイン支配の長かった北はフランドル、スペインから独立した南はオランダと呼ばれていました。
別件ですが、アントワープが出てくるお話ってなんでしたっけ?
そうなんです。私が、発病してはいけないと思い、昨日は、友人との夕食会をキャンセルしました。インフルエンザと認定される前は、行こうと張り切っていたのですが、インフルエンザと聞いて、1日の疲れがどっと押し寄せてきました。
受験生の母ですから、ここは、しっかり陣を守りましょう。しかし、感染に怯える母でもあります。
前の日にお父さんにサングラスを貸してと言ったそうです。一昨日寝込んだ部屋には、ノースリーブのチャイナドレス型をしたサンタの衣装が・・・!
これで、「フォー」とかやったのでしょう。あの雪の降った22日の終業式。寒かったのではないでしょうか。ああ、ばか息子。
体力の回復を待ちます。
アントワープ、そしてルーベンスときたら、これは「フランダースの犬」しかありません。
絵の才能に恵まれながら。貧しさゆえの偏見のなかけなげに生きる、少年ネロとその愛犬パトラッシュ
の物語です。アニメ化されて大人気だったようですから、lavieさんもきっと見ていらっしゃるんじゃないかしら。
フランダースとは、フランドル(地方)のことで、現在のベルギーになります。
もう二十年以上前になるでしょうか、英国国教会誕生の顛末、ヘンリー8世とアン・ブーリンの物語、リチャード・バートン主演で映画化されました。
題名は「ヘンリー8世」だったと思うのですが、ジュヌヴィエーヴ・ヴィジョルドがフランス宮廷帰りの若く魅力的な女官アン・ブーリン役でした。
典雅な音楽、華やかな衣装。
ちょっと太めになったバートンも、気の強そうなJ・ヴィジョルドもぴったりのキャスティング。
愉しみながら歴史のお勉強もできる、嬉しい映画でした。
D・オースティンの薔薇「アン・ボレイン」、アン・ブーリンのフランス語読みでしょうか?
takasiさんならご存知かもしれませんね。
ああ、そうか。なんだかとても懐かしい響きです。
実は、今回美術館に行く前、息子が、
「お母さん、ネロが見たかったルーベンスの絵のルーベンスが展示されてるんだよ」
と言ったのでした。息子は、ネロの見たルーベンスの絵が展示されていると思ったのでしょうか。
私もちょっぴりそんな期待をいだいて行ったのですが、ルーベンスの絵は、たった1枚。○○さんの肖像画でした。
「ネロの見たかった絵はなかったね・・・」と二人でつぶやきました。もっとも始めからそう言う趣旨の展示ではなかったと思いますが。
私は、アニメ世代ではないので、アニメとしては、あまり見てないのですが、本を読みました。みなさんだったら、そんな時代ですよね?ねえ、aostaさん!
だからアニメだけ知ってて、原作本を読んでいない子どもたちがいるということに納得がいきません。アニメから入って、本の方に行くこともあるでしょう。これはこれでいいですけど、まずは、自分の世界のイメージを膨らませてほしいなと思います。
弟が、「フランダースの犬」を読んだことがないと言って、世の中にそんな人がいるなんて信じられないと思った幼少時代の思い出があります。
息子が復活しました。
タミフルは発症して48時間以内に服用しないと効かないそうです。みなさん、様子が変だなと思ったら早めに受診してくださいね。
今晩は長男も帰省します。お気楽に別府温泉にゆっくりつかってのお帰りです(大学生が羨ましい)。私も次男が復活したら温泉にいきたいなあと思ってます。
フェルメールというと、僕の偏見かもしれませんが、必ずといっていいほど女性が主題の絵を描いたように思います。そして、ギターやフルートやリュート(これがまた素敵な音がするんだなぁ)やヴァージナルなどの楽器が登場しますよね。当時のギターの形や装飾がどんなであったのか知ることが出来ます。オランダですか。私の永遠のリコーダーの神様:フランス・ブリュッヘンも、オランダの人です。
面白いなぁ。キリスト教から絵画の話題になり、一旦キリスト教に戻って、今度は音楽に。みな繋がっているということですね。
> D・オースティンの薔薇「アン・ボレイン」、アン・ブーリンのフランス語読みでしょうか?
アン・ブーリンという名前を見たとたんに、アンヌ・ボレインという薔薇を連想したPapalin、たいしたもんですよ。絶対に臭いですよね。こういうときに限って、デイビッド・オースチンの薔薇のカタログが見つかりません。
あぁやっと見つかりました。でも、ANNE BOLEYNとしか載ってないです。花はPapalin好みのピンクのカップ咲きです。我が家の薔薇のリストの写真をURLに貼り付けました。可愛い花です。
> アニメだけ知ってて、原作本を読んでいない子どもたちがいるということに納得がいきません。
Papalinは、そういう子供達の一員でした。本を読むより、漫画やアニメ(当時はこういう言い方はありませんでしたが)の方が、手っ取り早くていいやって感じでした。
子供の頃、あまり本を読まなかったので、焦りもあって、今は読むようになりました。雑誌も含めてですけれど...。
アン・ブーリン=アン・ボレイン
どうしてもそう思いたい。
apalinさんのお庭に咲くのですね?
あのピンクのカップ咲き、写真でしか知りません。来年の薔薇の季節、この薔薇が咲いたら教えていただけませんか?
papalinさんももしかして、フェルメールがお好きなのでしょうか?
リュート、ヴァージナル、ギター・・・
フェルメールの絵の中には、たくさんの美しい楽器が描かれています。
手紙を読む女、刺繍する女、真珠を量る女とさまざまな女性をそのテーマとして取り上げたフェルメールですが、同時に「音楽の稽古」「リュートを調弦する女」といった、音楽や楽器に関係した作品も数多くありますね。どの絵もみな魅力的です。
「音楽の稽古」のヴァージナルに刻まれた、
”音楽は歓びの友、悲しみの薬”という言葉も大好きです。
本の世界に全身で没頭していたあのころ。
「想像するちから」あのころ身に着けたのでしょうか。今でも想像癖が抜けきらないaostaです。
> 「音楽の稽古」のヴァージナルに刻まれた
"音楽は歓びの友、悲しみの薬"という言葉
ほう、そんなのがあるのですね。私の場合は..."音楽は喜びの友、そして悲しみの親友"でしょうかね。
ペンションを経営している友人から一本の電話。
「今、面白い楽器持ってきたお客さんがいるんだけどこれから弾いてくれるっていうから、ちょっと聴きにこない?」
・・・「面白い楽器」、これがリュートでした。はかなげで、繊細な余韻のある響き。
突然の「演奏会」ということで、準備もないまま、でもかえってリラックスした雰囲気の中で聴いたダウランドやパーセルの小品。素敵でした。
ご趣味でリュートを弾かれるというその方との話もはずみ、リュートにも触らせていただきました。
その音色にも似た、繊細で精緻な細工が施された美しい楽器でした。
持ったときの思いがけない軽さも印象に残っています。
僕は、音楽では"想像力"から"表現力"へ。更には"創造力"へ行けたらいいなと思います。
リュートで演奏する"無伴奏チェロ組曲"も、とてもいい感じですよ。
「後日談」もあるのですが・・・
aostaさん、“「フランダース犬」原作で読みましたよ!「ハイジ」も「家なき子」もそうそう、「クオレ」や「ニルスの不思議な旅」というのもありますたっけ。「愛の家族」・・・”そうやって本を読みましたよね。
世界文学全集や日本文学全集とかを買ってもらい読んでました。小学生の頃は、そうやって本を読みながら寝ていましたが(そうしないと眠りにつけない)中学生になり、電車やバスでこ1時間通う中学校に進学し、通うだけで精一杯で、ころっと寝るようなりました。その頃から読書習慣がなくなってしまいました。それ以後、本を読むと眠気を誘って、読めません。エッセイとか短い短編が好きになり、っていうか、それぐらいしか読めません。なので
語彙が少なくなってしまいました。難しい文章は書けませんが、平易な文(読みやすい)は得意ですよ。
美術館で「アントワープ」の字を目にしたとき、私は、なぜかこの地に立たなくてはいけないという思いに駆られたのです。ネロが呼んだのでしょうか?
フランドル地方という懐かしい響きの土地、もちろん他にも紹介のあったイタリア、フランス、オランダ、スイスにも行って、立ってみたいです。
僕も平易な文章がお得意です。でも、最近aosta菌に感染したらしく、形容詞は増えるは、文体は文語調になるは、下手に真似するもんだから文章は長くなるはで、門前の小僧には失格ですな。
どんな小さな旅でも新しい発見があるし、初めて行くとこは、新鮮だし、リピーターの時は、再発見があるし。思い出になるようなお気に入りグッズを必ずといっていいほど買っています。
家の飾り棚は、小物だらけ・・・
では、よいお年を!(何度言ったのでしょう○)
lavieさんには、大変失礼なコメントを差し上げ、お許しを請わねばなりません。どうか、その寛大で清らな心で、Papalinの失態の数々をお許し下さい。来年がlavieさんにとって、肥沃ぢゃなくて、飛躍の年となりますよう、心から願って止みません。(舌)
本題に戻ってもうひとつ大事なこと。
キリストの生母であるマリアの位置づけです。カトリックにおいては、「聖母マリア」であり人間を超えた存在「無原罪の聖母」として、信徒の進行の対象となっています。
カトリックでは、マリア信仰という認識はなく、非人々の祈りを神様にとりなしてくれる、取り次いでくれる母なる存在という見地にたっています。
神ではないが人以上の者として、なのです。カトリック教会が認めているそのほかの大勢の聖人とも一線を画した存在なのです。
結果、誤字だらけ。ごめんなさい!
>信徒の進行の対象→信仰の対象
>非人々の祈りを→人々の祈りを
ということで、ご了解願います。
まず、「無原罪」という認識はありません。マリアとて「原罪」から逃れることはできなかったという視点です。カトリックにおいて「神から選ばれた処女マリア」ですが、プロテスタントにあっては、どんなに信仰に厚くともあくまで一介の市井の女性にすぎません。
同じ悩み、痛み、罪に苦しむ私たちと同じ「人間」であるにもかかわらず、彼女がキリストの母として選ばれたという、言わば「逆転の発想」がプロテスタントのマリア観であるように思います。
マリアの処女懐胎に神の恩寵をみてもマリアその人に聖性を認めることはない、ということなのでしょうか。
その聖母幼稚園では、当然神様がお守くださっているという教えでしたが、なにかにつれ、マリア様が・・・という言葉を沢山聞いたような気がします。聖母幼稚園はまさしくカトリックの教えであり、マリア像もありました。カトリックにおけるマリアの位置づけ・・・人である聖人よりも神に近い存在、というか、人と神の中間に存在する、大切な方であることがよくわかりました。
プロテスタントは「聖人」という概念を認めていないだけであってキリストの弟子をはじめ多くの先達者の功績はしっかり評価しています。
>マリアの存在も聖書外ということになるのでしょうか・・・
聖書には「聖人」という言葉は出てきません。「聖人」という一種の「格付け」はのちのカトリック教会がつくりだしたものです。聖人でないから「聖書外」とはいいません。
マリアは、プロテスタントにおいても、聖書に書かれている通り、新訳聖書の中の重要な人物であることに変わりはありません。
そして、新・旧約聖書ともカトリック、プロテスタントを問わず同じものが使われています。最近はカトリックとプロテスタント両者の共同によるあたらしい訳の聖書が一般的になっています。
カトリックそしてプロテスタントを問わず、
「父と、子と、聖霊」は神の三つのペルソナ(位)をあらわすものとして「三位一体」の概念を共有しています。カトリックにおいては「秘蹟」とされる概念です。
三つの異なったペルソナが同時に唯一のものであるとするこの考え方はキリスト教の根本的な思想です。わたくしなどに、安易に説明できるものではありません。
本来の意味は、上記にあるとおりです。
「三位一体」の概念のほかは全て信仰から外れるという意味でおっしゃったのでしょうか?
「三位一体」はすべての信仰の大前提となる基盤です。だからといって、それだけが信仰ではありません。旧約、新訳聖書に記された神の言葉、キリストの教え、そして使徒たちの言動においても正しい理解のもと信仰のたいせつな拠り所であるはずだと思います。
「三位一体」これだけで、何冊も本が書けるほどです。また読んだからといって、必ずしもも理解できるというものでもないように思います。
これはもはや哲学および神学の領域の問題です。
最新刊の「ナショナルジオグラフィック」もうごらんになりましたでしょうか?
そのトップは“『ユダの福音書』を追う”という衝撃的な内容の記事でした。
キリスト十二弟子の一人「イスカリオテのユダ」
彼は、銀貨30枚でキリストを裏切って敵方に売り渡した、聖書のなかではおそらく最大の罪びととして認識されてきました。
しかしこの「ナショナルジオグラフィック」によれば、1700年ほど前のものと思われるパピルス文書が解読され「ユダの裏切り」がキリストの了解の上での行為だった、という新しい解釈が浮上してきたというのです。
これが、もし真実であるならば、カトリック、プロテスタントを問わず、キリスト教会全般を震撼させるものとなるのでしょう。
クリスチャンであるないを問わず、考古学的にも非常に興味のあるところです。
今後、この話がどのように展開していくのか、たとえばヴァチカンはどのような対応をするのか、プロテスタント諸派はどうなのか、まったく見当もつかない分、成り行きが気になります。
このブログへのコメントは久々ですね。
当然読んでいませんが、驚きの連発です。
まず「ユダに福音書がある」ということに驚き。それは彼がキリストの弟子だった頃のもの? それともキリストが処刑されて以降の福音?
キリストの了解(指示)のもとに演じられたドラマ...そのようなことを一体誰が想像できたでしょう。驚きその2です。
真実ならば、確かに一大事ですね。変な圧力がかからないで、科学的に分析されて好評されることを
願っています。とくにバチカンから。
これは、かのダヴィンチ・コードも暴けなかった事実だとすれば、確かに価値観をまるっきり変えなければならないでしょう。でも、この新説は、従来のキリスト教の教えを更に大きなものとするような気がします。隠さず、新説を解き明かして欲しいですね。
全然違う話ですが、僕の友達に湯田君という同級生がいました。彼も救われるかななんて思いました。
それと、音楽への影響。
ないとは言えませんが、あるスナップショットとしての時代の切り口からそれぞれの音楽が生まれてきたと考えると、従来の音楽はそれはそれでいいような気がします。
出版を待ちかねて買った本です。
読売新聞で、アメリカの紀伊国屋で大ヒットという記事を読んで本屋さんに走った時点ではまだ発売前。一月ほど待ってやっと、手に入れた本でしたが、日本国内でもこんなベストセラーになるとは思っても見ませんでした。
聖杯伝説や死海文書、ナグ・ハマディ文書に基づくフィクションは今までも、数多く出ています。
ダヴィンチ・コードがまった斬新な切り口の小説というわけではないのですが、ダヴィンチの作品と初期キリスト教のなぞを結びつけたというアイディアは確かに秀逸。久々に楽しめたミステリーでした。
papalinさんの仰るとおりだと思います。
「何故、ユダでなければならなかったのか。」という疑問は絶えず私にもありました。
キリストの信厚く、使徒たちの“会計係”でも合ったユダ。彼の時代に限らずそうした仕事に求められるものは、誠実で、裏表がない、潔癖な性格であるはずです。ユダがそうした資質を備えていたからこその”会計係”であったのではないでしょうか。
彼の「裏切り」がキリストの示唆によるものか、彼自身の判断であったのかはわかり得ないまでも、その結論を出すまでの彼の苦しみの大きさはいかばかりであったことでしょう。
キリストを「裏切った」ということについて言えば、イエスが捕縛された晩、「あなたはあの人の弟子ではないか?」という問いかけを自分の保身のために、三度否んだペテロにあっても同じことが言えるのではないか。
そしてペテロの裏切りが赦されるなら、ユダが、己の弱さゆえにキリストを売ったとすれば、彼こそが「救われるべき」罪びとの筆頭ではないか。
ユダの裏切り、ペテロの否認と来ればヨハネ・マタイ両受難曲を連想いたします。
>あるスナップショットとしての時代の切り口からそれぞれの音楽が生まれてきたと考えると、従来の音楽はそれはそれでいいような気がします
papalinさんのご意見、もっともだと思います。
解釈は「解釈」であって「真実」はだれも知り得ないものかもしれません。
それぞれの受難曲には、人間の息詰るドラマ、その真実があります。
哀しみ、怒り、恐れ、そして愛、希望、赦し・・・
状況がかわったとしても「音楽の真実」は変わらないと、私も思います。
娘が、あっという間に上下巻を読破して「パパ、面白いから、これ読みな」と渡されたまま、積読(どうして"つんどく"でちゃんと漢字変換されるの?)状態にになっている本なのですが、キリスト教に関して、ある程度知識があれば、どこがどうフィクションなのかとか、これはあの史実のパロディだとか、考えられるのではないかと思うのですが、自分にはそういう知識がないので、その先入観が邪魔をして、読み始めることができないでおり、つまり、句点のない長ったらしい文章で言い訳をしているわけでして・・・・・疲れちゃいました。(笑)
ユダはそういう人だったのですか。最も信頼されている人であったのですね。キリストがユダに命じた...ということも十分にありえそうですね。裏切りも、信用できる人間でこそ成就できるもの。何だかとても興味がありますね。
aostaさん、お読みになった読書感想をポイントを中心に簡潔に教えて下さいね。(横着者)
確かに。息詰まるドラマですね。人生って、息詰まるドラマですね。行詰ってはいけませんが、息詰まるドラマです。確かに。
脚色のない、生身の、等身大のドラマ。aostaさんだと、それがバッハの2大受難曲であり、僕とかきっとちゃみちゃんだと、さだまさしの「主人公」になるのかも。ちょっと落差が大きすぎるかしら。
早速、行きつけの本屋さんに駆けつけたのですが
入荷がないということで、やむなく取り寄せになりました。
インターネットで注文したほうが早いとは思うのですが、何故か「本屋さんで買う」ことにこだわってしまいます。本が好きというだけでなく、本屋さんが好きなのです(笑)
わかります、その気持ち。本屋さんには店員さんがいます。それも、本の大好きな店員さん。アルバイトでは無理だろうけれど。
僕がCDをインターネットで買わないのは、やっぱり店頭で手にとって、帯を読んだり、収録曲のみならず、どの曲を誰が演奏しているか、細目を知りたいからです。
ネットは便利ですが、もう一つ、痒いところに手が届かないというか、平面的ですよね。
「ユダの福音書を追え」の感想も是非。
いわゆる「福音書」とは、イエス・キリストの言葉や行いを記録したもので、「正典」とされている新約聖書の四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のほかにも「外伝」としての福音書もあるようです。今回解読された「ユダの福音書」もこの「外伝」のひとつとして位置づけられるのでしょうが、ギリシャ語からの翻訳と見られるコプト語(古代エジプトの言語)でかかれたこのパピルス文書は紀元180年頃、すでにタブーとなっていたようです。
いずれにしてもユダ自身の手によるものとは、考えにくいようですが、伝承だからといって「偽りである」と言い切ることには無理があるように思います。もちろん、「真実」であるという確証もないわけで、はてさて、難しいところなんでしょうね。
やはり、史実(この場合は、コプト語というのですか、そのコプト語で書かれた部分の翻訳)は事実として公開して、その上で考えられる説を述べたらいいと思うな。
これは世紀の発見? それとも、2000年に一度の大発見ですかね。
”??”ですよね。普通、書店経由で取り夜での場合、早くても10日はかかります。
しかも今回は連休前でしたから、どうがんばっても2周間以上かかるだろうと踏んでいたのです・・・
もちろん、早く手元に届いたことは嬉しいのですが、すぐには読める状況にありません(哀)
あ~、早く連休が終わらないかしら・・・
普段と違う生活リズムになりますので、お疲れでしょうか。でも、aostaさんと店員さんくらいだと思いますよ。早く連休が終わらないかななんていっている人は。(笑)
本の件については、良い方に解釈しましょう。馴染みのお顔なので、他のをちょっと先に回してもらった...とか。オプティミストだな~。
聖母マリアについてですが、実は、プロテスタント諸教会のすべての教派が、マリア崇敬をしています。カトリック教会に固有というのは俗説です。というのも、キリスト教は、東方教会と西方教会に分れ、西方教会はカトリック教会とプロテスタント諸教会(後者はさらにたくさんの教派・教団に分れています)に分れます。他方、東方教会は、オーソドクスとオリエンタルオーソドクス(後者はさらにいくつかの教派に分れます)。そして、東方教会(代表的なものは「ギリシャ正教」などと呼ばれています)も、聖人(マリア含む)の崇敬をするのです。なお、聖人はあくまで人間であって、神ではありません。ですから、ご存じの通り、聖人に向けての祈りの際にも「我らのために(神に)祈りたまえ」ということになるのですね。以上、簡潔にですがコメントさせていただきました。
解説をしていただき、ありがとうございました。世界で最も信者数の多い宗教ですから、歴史において分かれて発展してきたのも、そしてそれらは共通なこともあれば、固有のものもある・・・・・頷けますね。私の知っているのは、西方教会のカトリックのほんの一部の知識に過ぎません。ありがとうございました。
私の上記文章の、「プロテスタント諸教会のすべての教派が、」というのは、「プロテスタント諸教会『以外の』すべての教派が、」に訂正させてください。
プロテスタント諸教派はたくさんの教派教団に分れていますが、聖人(マリア含む)崇敬をしません。その他の、カトリック教会や東方教会などが聖人崇敬をするとうことですね。なお、カトリック教会では、マリアを神のように崇拝することは、教会法(canon)上認められていません。
それでは、失礼しました。
よかった。では私の認識はあっていたようです。但し、私が知っているのは西方教会に過ぎませんけれど...。どうもありがとうございました。