【クラシック音楽-012】 作曲家の妻 : コンスタンツェ・モーツァルト
コンスタンツェのような奥さん、どう思いますか?
先週、新聞で読んだ記事なのですが、あのモーツァルト(1756年生-1791年没)の奥さんだったコンスタンツェが、2つに破り、長い間別々に保管されていたモーツァルトの楽譜が1つに復元されて、ロンドンの大英図書館で公開されるようです。それがこの写真の楽譜です。

モーツァルトが亡くなって44年後の1835年、彼の妻だったコンスタンツェが、楽譜の価値を上げるために、わざわざ上下2つに楽譜を破って、それぞれを別の人の手に渡したようです。作曲家の死後、断片になった楽譜の収集が流行していたということも背景にあるようです。下半分は1953年から大英図書館が保管していますが、上半分はドイツ・バイエルンの官吏の手に渡り、最近まで個人収集家が持っていたようです。モーツァルト生誕250年を記念して、大英図書館が上半分を古物商を通じて購入し、みごと復元されることになったとのこと。良かったですね。
楽譜は表裏に曲が記されており、片面は1773年に書かれた弦楽四重奏のメヌエット、そしてもう片面は、ピアノ協奏曲の独奏部分(カデンツァ?)だそうです。
したたかですよね、コンスタンツェ。もっとも彼女とて生きていかねばならなかった...。それも子供と残された借金を抱えて貧困に苦しんだのです。生きていくために頭を働かせたといえば、いかにもという気もします。さて一方では、果たして自分にはこういうことができるでしょうか。きっと無理でしょうね。そこまで機転が利きそうもありません。
たとえば我が家で例示してみますと、現代という時代を前提にして...。Papalinが演奏した、モーツァルトのレクイエムの録音テープ。リコーダーによる伴奏パートの録音部分と、歌のパートの録音部分とを、2つに分離して、それぞれをMamalinが数百万円で売るってことかなぁ。買い手もいないでしょうけれど、そういう発想ができるかどうかですよね。どうなんでしょうね。
皆さんはこのブログを読まれてどう思いますか?
【写真】 妻コンスタンツェによって切り裂かれた、17歳のモーツァルト直筆楽譜
先週、新聞で読んだ記事なのですが、あのモーツァルト(1756年生-1791年没)の奥さんだったコンスタンツェが、2つに破り、長い間別々に保管されていたモーツァルトの楽譜が1つに復元されて、ロンドンの大英図書館で公開されるようです。それがこの写真の楽譜です。

モーツァルトが亡くなって44年後の1835年、彼の妻だったコンスタンツェが、楽譜の価値を上げるために、わざわざ上下2つに楽譜を破って、それぞれを別の人の手に渡したようです。作曲家の死後、断片になった楽譜の収集が流行していたということも背景にあるようです。下半分は1953年から大英図書館が保管していますが、上半分はドイツ・バイエルンの官吏の手に渡り、最近まで個人収集家が持っていたようです。モーツァルト生誕250年を記念して、大英図書館が上半分を古物商を通じて購入し、みごと復元されることになったとのこと。良かったですね。
楽譜は表裏に曲が記されており、片面は1773年に書かれた弦楽四重奏のメヌエット、そしてもう片面は、ピアノ協奏曲の独奏部分(カデンツァ?)だそうです。
したたかですよね、コンスタンツェ。もっとも彼女とて生きていかねばならなかった...。それも子供と残された借金を抱えて貧困に苦しんだのです。生きていくために頭を働かせたといえば、いかにもという気もします。さて一方では、果たして自分にはこういうことができるでしょうか。きっと無理でしょうね。そこまで機転が利きそうもありません。
たとえば我が家で例示してみますと、現代という時代を前提にして...。Papalinが演奏した、モーツァルトのレクイエムの録音テープ。リコーダーによる伴奏パートの録音部分と、歌のパートの録音部分とを、2つに分離して、それぞれをMamalinが数百万円で売るってことかなぁ。買い手もいないでしょうけれど、そういう発想ができるかどうかですよね。どうなんでしょうね。
皆さんはこのブログを読まれてどう思いますか?
【写真】 妻コンスタンツェによって切り裂かれた、17歳のモーツァルト直筆楽譜
この記事へのコメント
【モーツアルトを聴くと病気にならない】のCDを同僚から借りてきました。早速、聴かなくっちゃ!「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「ヴァイオリン協奏曲」など。
もちろんpapalinの楽曲も身体にいいですよね。免疫力が高まる?!
先週、blogで読んだ記事なのですが、
あのdogachan(1959年生-2059年没)の
奥さんだった明乃ちゃんが・・・
おっとぉ!
また「やって」しまうところだった!
(アブナイアブナイ・・・頭の中が!?)
皆様こんばんは♪
ちなみに「あきの」は妻の実名です。
源氏名ではありません。(笑)
うちの妻は「天然ボケ♪」なので、
偉大なるモーツァルトの奥様のように
知恵は働きません・・・が!
家事や子育てには「よく働き」ます。
(感謝!)
だけど・・・僕の「相手」はしてくれません。
(哀!)
彼女についての私の知識は、世間一般のそれと大差ありませんが、真実の彼女はどんな人だったのか興味はあります。
でも、このふたつに裂かれた楽譜の話は、初めて聞きました。
一枚で売るよりも、半分にして、それぞれ別の相手に売りつける、話だけ聞けば非常に合理的と言ってもよいかも知れません。
彼女とて、生きていかねばならなかった・・・
その通りですよね。特にこの時代配偶者をなくした女性には、過酷な時代であったのかもしれません。であったとしても、彼の音楽を愛して止まない私としては、疑問を抱かざるを得ない気持ちでいっぱいです。
モーツァルト自身、かなりと言うより、相当奇異な面を持った人物であったことは確かですが、その「天才」を誰よりも近くで、感じていたのはコンスタンツェではなかったのではないでしょうか?まがりなりにも、妻であった人です。
モーツァルトを理解できなかったとしても、彼の音楽のただならぬ天才を感じることはなかったのか、また畏れることはなかったのかと思うのは私だけでしょうか?
その、両面にモーツァルトの弦楽四重奏曲とピアノ協奏曲の一部が書き込まれている・・・
私がこの一枚の楽譜で連想するものは、湧き上がる楽想にまかせて、ひたすらにペンを走らせるモーツァルトの姿です。
もしかしたら、彼にとって書き上げてしまった音楽への関心はすでにないのかもしれません。
彼を追い立てるようにうまれてくる音楽と一緒に、モーツァルトの想いは先へ先へと進むばかりだったのではないでしようか。
最後まで、後を振り返ることなく逝ってしまったモーツァルト。
せめて、一時でもその人生を彼と共にした女性がモーツアルトの音楽を愛していたと、愛そうとしていたと信じたいと思います。
裂かれた楽譜にまつわる、また別のお話を、どなたかご存知ではないでしょうか?
モーツァルトを聴くと病気にならない...すごいタイトルのCDですね。これで3大疾病も防げるとしたら、人類始まって以来の最大の発見ということになるのではないでしょうか。でも、風邪引かない、インフルエンザにならない、そう頑張ったlavieさんは素晴らしいです。秘訣はなんだったのでしょうか?
またいつものパターンかと思って期待したのに、エクスタシに到達する前にあっけなく終わっちゃったよ~。これではPapalinは悦べませんわ。
でも、dogachanは100年生きたいのね。僕も、矍鑠としていたら、100歳までも生きたい。
"明乃ちゃん"なのですね。僕はなかなかMamalinのことを、そういう風には呼べません。あなたは、明乃さんを幸せにするために生を受けた人だのですね。すごく納得。
来た来た、本格的なコメントが。(笑)
コンスタンツェは、当時名の売れたソプラノ歌手だったことはご存知でしょうか。彼女もそれで食べていけたはずだと思うのですが、老後は無理だったのでしょう。だからこういうことを画策したのではないでしょうか。でもこれは非常にキレイな見方で、aostaさんの仰るように、生前のモーツァルトは品位にかなり問題があったものの、その音楽は、モーツァルト本人を知る人には信じられないくらい素晴らしく、作品によっては神の音楽であり、人々を楽しませ、満足を与えていく...そういうものであり、そういう人だったようですね。本当に、Papalinによく似ています。
僕の以前のモーツァルト徹底研究によりますと、モーツァルトが作曲した音楽を楽譜に記すのは、ただ写譜をしているようなものだったようです。頭の中に既に立派な音楽が出来上がっており、それを楽譜にして実際にピアノで演奏してみて推敲するという普通の作曲家が行なう行為さえも彼はしなかったようです。天才とはそういうものなのでしょうか。
モーツァルト像は、あの映画「アマデウス」の彼とそうは違わないようですね。これは色々な文献などからも想像できるようです。一方のコンスタンツェも映画の通り。あの映画で事実を大きく捻じ曲げているのは、サリエリがモーツァルトと彼の音楽を妬んで彼を殺したというところです。
コンスタンツェは間違いなく、モーツァルトの音楽を愛していたでしょう。
とっても素敵な女性だと思います。世間が騒ぐほどの悪妻とは思いません。チャーミングです。
だって、モーツァルトがねえ。あれではお互い様ですね。彼は弟子も沢山取りましたがもれなく関係がありましたから。コンスタンツェだって彼の一番弟子のうーんなんだったかしら、確かジェスマイアー...三角関係でしたから。ですから彼がなくなったときお葬式にも来なかったジェスマイアーと一緒でしたから、そして、確かフリーメーソンのお仲間の奥様とモーツァルトの間に子供ができていました。でもお腹の中で彼女とともに死んでしまいましたけど。コンスタンツェとジェスマイアーの間にも子供がいたと思います。
あっ!駄目駄目。こんな美味しいタイトルのブログでは...。
なので、こういうブログは、私には目の毒ですよ。
おはようございます。
「本格的なコメント」・・・
何を持って「本格的」いうのかわかりませんが、今回のコメントに関して言えば、papalinさんのように、徹底研究の経験もありませんし、単に私の主観的なイメージにすぎません。
モーツアルトほど、さまざまな憶測をされ偶像化されている音楽家も少ないような気がします。
一変して、映画「アマデウス」で、そうした神がかり的なモーツァルト像は覆されました。
時間とたくさんの労力が費やされた、考証と研究のひとつの結果だと思います。
変わらないのはただ彼が残した音楽だけ。
私にはそれで十分です。モーツァルトの音楽に説明はいらないのです。
あら、いけない!このブログのテーマはコンスタンツェでしたね。
モーツァルトを弾いている時に、「強い光と哀しみに包まれる」・・・
この言葉、モーツァルトの音楽そのものです。
強い光、それは地上の光ではありませんよね。
天上からの光・・・それはそうなのですが、もっと違う何か。
ああ、やっぱり。光、そのものとしか言えませんね。言葉に置き換えることは無意味です。
「光と哀しみ」さすが天使さま!
それ以外の言葉はみつかりませんでした。
コンスタンツェはどこ?
今、トラックバックで「モーツァルトな気分」、見てまいりました。
まだ、aostaが存在shなかったころのブログですね。
でも、読んだという記憶はありました。こうした会話に憧れて、初めてのPCに挑戦したようなものですから(笑い)
小林秀雄の「モオツァルト・無常という事」このなかでモーツァルトの40番ト短調について書かれた文章は、私の中にやきつけられています。
言葉だけで、あんなにも音楽を感じさせることができる小林秀雄にのめりこんでしまいました。
喧騒の道頓堀をうろついていて(確か、うろついていて、とありましたよね)突然あのト短調の有名なテーマが頭の中で鳴り響いたというくだり。私にも、いつかそんなふうにモーツァルトが鳴るときがくるのかしらと本気でおもったものでした。
モーツァルトの肖像画についての美しい文章もまた魅力でした。小林秀雄が「アマデウス」を知らないまま、私たちにあのような素晴らしい本を残してくれたことを、喜びとともに感謝したい気持ちになります。
僕も嫌いではないですね。その奔放とした性格は羨ましくもありますよ。
頂いたコメントの内容、僕は嫌いではないです(むしろ興味あり)なのですが、あなたのハンドルネームとのギャップが大きくて...。こんどはこっそりと僕だけに教えて下さいね。もう少し奥の方の話を。(^_^;)
いよいよ本領発揮ですね。プロの音楽家からみた音楽家/音楽、そういうの、聴かせて下さい。
Papalinはプロの音楽家に対しては、すごい偏見を持っています。とてもここでは書けないのですが、負の印象がものすごい強いです。なので天使♪さんが「・・・が好きです!」と断言されることは、とても珍しいと思います。自分以外の音楽家の音楽の批評(批判)はすれども、自分がどの人を両手離しで尊敬しているかは言わない人が殆ど。そういう点からも、天使♪さんをPapalinが慕って...いやいや、尊敬しているのです。
おはようございます。
思い出したことがあります。
モーツァルトって、「お話好き」だったんです。
それも、笑い転げるような愉快なお話が。
飽きず、コンスタンツェにいろいろな笑い話や小噺をさせては、涙を流して笑い転げていたといいう話、どこで読んだのか、それとも聞いたのかさだかではありませんが、なんだか納得できる話です。
聞き分けのない子供のようにいつまでも「お話」をおねだりするモーツァルト。
きっと、ひとつの話が終わっても、その続きを要
求し続けたのかもしれません。
そうしたモーツァルトにほとほと手を焼きながらも、お相手をしているコンスタンツェ。
そんなふうにして語られた物語の中から、あの素晴らしいオペラの準備されていったのかもしれませんね。
いやぁ、このブログの内容に濃く関わっていたコメントを頂きまして、そうめったにあることではないので、嬉しかったのですね。
モーツァルトは、人々に二重人格だと言われようと何をしようと、aostaさんがおっしゃるように、彼の音楽は、それそのものが一つの"人格"として存在するわけですから、それでいいのです。僕も普段はちゃらちゃらしていますが、こと"音楽"をするときだけは、真剣になりますね。そういう意味では、僕とモーツァルトは同類項であり、友達であるのです。あいたた、また舌噛んじゃった。
強い光と哀しみを感じる。言いえて妙とはこのことです。その通りです。彼のDurには天真爛漫な心を感じ取ります。彼のmollには、深い哀しみを覚えます。でも彼の音楽は、durで閉じてくれるから救われます。
コンスタンツェ? そういう彼を一番近くで感じ取っていたのが彼女でしょう。一連のしたたかな行為も、彼の偉大さを知っているが上の所作だったのではないかなぁ。
道頓堀でモーツァルトの40番が~? 小林さんの頃も、あの橋の上は"喧騒"だったにも関わらず、なぜ短調の40番が頭の中を流れたんだろう。
関西方面の人には申し訳ないのですが、関西弁とクラシック音楽って、僕には接点は何もないのです。だから絶対にモーツァルトの音楽は思い浮かびません。あの場所、僕も何度か訪れていますが、しいていうなら「は~んし~ん、タイガ~~ス」の曲が浮かびました。本当に流れていたような気もします。(笑)
私も「道頓堀」とモーツァルトという組み合わせはなんだかミスマッチに聞こえてしまうのですが・・・
もう、黄ばんでしまった小林秀雄の「モオツァルト」本棚の置くから取り出してきました。
「もう二十年も昔のことを、どういうふうに思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニーの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである・・・・・
街の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で誰かがはっきりと演奏したように鳴った・・・」
ね、道頓堀でしょう?
確かに道頓堀ですね。でも、四季の中でということだったら予想は当たっていました。冬以外には考えられません。小林秀雄さんの時代には、グリコも、カニもなかったのでしょう。歩いた時間がひとつのヒントですね。まだ日が昇る前か、深夜かとも思ったのですが、雑踏の中ですか。とすると、彼の心は道頓堀にあらず...だったのでしょうね。
>「光と哀しみ」さすが~
>それ以外の言葉はみつかりませんでした。
有難うございます。本当に良い音楽には言葉は要りませんよね。
光...ですが、天上界からの光ももちろんのこと、
しかし、体の中の内なる光...魂の輝き...生きる喜び、生命力、愛、悲しみ、情熱、勇気etc
時として、憎悪や嫉妬でさえも天からの慈愛に満ちた光に包まれ浄化して輝く...私にとっては至福の時です。
>彼のmollには、深い哀しみを覚えます。
>でも彼の音楽は、durで閉じてくれる~。
そうですか。私は彼のmollよりDurの方が深い悲しみを感じます。明るければ明るいほど。
mollだから悲しいとは限らず、またDurだから、明るいとは限らない、Durさん笑っていても心では泣いているかもしれませんよ。実に内面深いものです。
レッスンではありませんから(笑)
ちょっとかっこつけてみました。
Papalinさんの感性良いと思います☆
ごめんなさい、お返事を飛ばしてしまいました。いろいろ考えるに、モーツァルト夫妻は、ベスト・カップルだったのではないかと。コンスタンツェはアマデウスから得るものばかりでなく、彼に与えるものも沢山持っていた、そんな一つの例が"笑い話"なのかもしれませんね。その音楽に似つかわしくないお下品さ...Papalinと通じるものがありあmすね。あいたた...。
思わず頷いてしまいました。僕の体内にも光は宿っているのだろうか。きっとあるんだろうね。でも僕はまだ気づいていないのかもしれません。
奥深いですね。そこまで読みますか。楽天的な音楽は深い悲しみの裏返し、ペシミスティックな音楽は、希望を予言する表現、そう捉えることもできるというのですね。
確かに、昨年末に聞いた梯さんのピアノコンツェルトは、あまりにも軽快でした。あの演奏から内面に存在する悲哀を連想することは、僕には至難の業ですが、そういうモーツアルトのDur、一体ピアニストはどう演奏するのでしょう。天使♪さんのモーツァルトを今度聴かせて下さい。
!!! ---> ??? ---> んんん。
おはようございます。
もしかして、また舌を噛まれました?
いっそのこと、抜いて差し上げましょうか?
でも、それでは、タンギングができなくなりますね。それは困ります。
くれぐれも、舌を噛み過ぎないようにようになさいませ。
明るければ、明るいほど深い悲しみ・・・
お言葉のとうりですね。
モーツァルトの音楽を聴いてどうしてこんなに悲しいのかと自問するとき、出てくるのは「あまりにも、明るく美しいから。」という言葉しかありません。
モーツァルトの「明るさ」にはいつもひりひりとした痛みを感じるほどの、深い悲哀を感じます。悲しみを透徹して、その上澄みだけがきらきらと光っている。
どんなに楽しげに、軽やかに、歌っているときも哀しみはいつも通奏低音のようになっています。
悲しい曲が悲しいのではないのです。
人の存在そのもが哀しみである、とさえ思わせるほどにモーツアルトの音楽は哀しみに満ちています。
最近は頻繁に。どうしたことでしょう?
天使♪さんと、モーツァルトのDur(長調)の曲の印象に関して、同じような受け取り方をされているのですね。何だか一人だけ蚊帳の外みたいで嫌だなぁ。でも、僕も全く感じないかといえばそれは嘘で、「どうしてここまで嘘をつくか?」という疑問は持ったことがあります。そう、それは、明るく軽快な曲を聴いているときにです。
私たちが聴こえるのは、このあえかな結晶のreflectionにすぎないのではないでしょうか。
昨年末の梯さんのモーツァルトにも、きらきらとした哀しみがあったと私は思いました。
もしかしたら、川底に沈んでいる結晶のように、そのreflectionは密やかなものであったのかもしれません。
梯さんのモーツァルトは、明るすぎるほど明るくて軽快で、こんな風に弾いていいのだろうかと感じるくらいでした。でもaostaさんは哀しみの結晶を見てとった、聴いてとったのですね。奥が深いのですね。
あのコンサートのプログラムは、ベートーヴェンのエグモント序曲で始まって、次が梯さんのモーツァルトの21番のPコン(でしたっけ?)、そしてチャイコフスキーの第5番。こういう前後のやや重たい曲の中にあって、梯さんのピアノは星のようにキラキラ輝いて見えました。僕にはね。
ご無沙汰してます。
天使♪さん、はじめまして、かな?
最近忙しいこともあって
ROM化しちゃってます。
ごめんなさい。
勝手ながらトラックバックさせてもらっちゃいました。
本能的に内側からほとばしり出るものを
記し残す表現手段としていろいろなものが
あるんでしょうけど
むとさんと天使♪さんは音をaostaさんは言葉を彼は音符を使う。
不勉強でそんな素敵な表現手段を持たぬ僕は
そんな思いで読ませてもらってます。
こんばんは。
久しぶりに先生のコメント拝見して、うれしいです。この季節、受験生のお世話やご指導でお忙しくしていらっしゃることと思います。
今日は、関東地方、大雪とのこと。
先生の、お住まいのあたりはいかがでしょうか。
都会では、5センチの雪でも大混乱になりますものね。センター試験に支障はなかったのでしょうか?
ところで、「ROM化する」とは、どういう状態のことなのですか?
お話の前後から推測するに、停滞するとか、静止状態といった気配を感じましたが、本当のところはどんな意味なのでしょう。
お返事が遅くなってしまいました。前日の暴飲がたたって、二日酔いです。
先生から頂いた、この文章、とても好きです。先生もaostaさんに負けず劣らず、素敵な表現力と説得力をお持ちですよ。そして先生のサイトで聴けた、モーツァルトのきらきら星変奏曲。ハンマークラヴィアのような柔らかい音での、塾の先生の作品、とても暖かな気持ちになりました。
この辺りは全く降らなかったのに、関東が大雪とは不思議ですね。新潟⇒群馬⇒首都圏という雪雲の流れだったのでしょうかね。
塾の先生、お忙しいようですから、aostaさんにROM化について代わりに説明させてもらいますね。ちょっと長くなりそうですので、一旦ここで切ります。
パソコンの中に入っているメモリーって解りますか? CPUというパソコンの頭脳が仕事をするときに、データを加工したり、四則演算をやらせたり、音楽データを再生したり、画像データを画面に表示したりするときに、データを溜めておく"メモリー"が必要なのですね。
こうした"データ"は通常ハードディスクとかDVDとかCDという記憶媒体に保存されているのです。でも、頭脳であるCPUは、これらの媒体とは直接お話(データのやり取り)ができないので、メモリーという記憶域に一旦データを読み込んで、このメモリとお話しするんですね。
このメモリーは、大きく二つに分類できます。RAM(ラム)とROM(ロム)です。
RAMは Random Access Memory の略で、記憶されているデータを読み出すことも、あるいは新しくデータを書き込むこともできるメモリーのことをいいます。
一方ROMは Read Only Memory の略で、その名の通り、既にデータが書き込まれていて、それを読み出すことしかできないメモリのことを差します。音楽CDや映画のDVDも、既に書き込まれたデータを読むだけですよね。ですから、あれらもROMなのですね。
ここまではいいでしょうか?
今回、塾の先生がお使いになった言葉:ROMは、実はこのコンピュータ用語のROMを文字ってつかっているものなのです。
インターネットの発展と当時に、電子メールも発展してきました。あるとき、同じ趣味・興味をもった人たちが、特定のML(Mailing List)という集まりに属して、全員でメイル情報を共有するということが始まりました。ちなみにPapalinも、リコーダーとか古楽器、古楽そのものに関するMLに所属しています。
さて、やっと本題に到達しました。こうした集まりを構成する一人ひとりですが、よく発言する人と、発言はせずに、どんな情報交換がなされているのかをウォッチしている人がいます。この後者のような人をROMといいます。何の略かというと、Read Only Mailer です。最近ではMLだけでなくて、ブログなんかでも、発言はしないけど、読んでいますよ~という人のことをROM(Read Only Member)と呼んだりします。
僕は自分のブログでは闊達ですが、所属しているMLやmixiでは、結構ROMだったりします。ほらね、こんなように使うのですよ。
おわかり頂けたかなぁ?
塾の先生、見るのが精一杯で、とてもコメントを書き込む時間がとれない...そんな状態だったと思われます。
aostaさんの推測した、停滞状態、休止状態、ご名答ではありませんが、ニュアンスとしては似ていますね。(微笑)
よかったよかった。では、それから以降は簡単なお話なので、問題ないですよね。
ありがとうございました(^^)
あと一月ちょっとすれば
もう少し時間がとれるようになると思います。
そうなれば
じゃかじゃか上がり込んじゃうもんね(笑)
ROM、そして「ROM化する」という状態について丁寧に説明していただきました。
papalinさん、ありがとうございました。いままで、パソコン用語として、限られた人や、特定の場面だけで使われていた言葉も、パソコン人口の増加とともに日常的な言い回しのひとつになってきているものも多いのでしょうね。
そして、塾の先生。
お忙しい時期とは思いますが、dogachanさん同様、無理をなさらず健康に留意されてくださいね。「じゃかじゃか」おいでいただける日を楽しみにしております。
出すぎた真似を、済みませんでした。合ってましたかね。(笑)
先生が繁忙から解放される頃は、ちょっとだけ春の兆しが見えますでしょうか。こちらの春は遅いです。梅も桜も一緒に咲きます。
心地よい達成感と共に、じゃかじゃか書いて下さ~い!
何だか要領を得ない説明で、長ったらしくなっちゃいまして、余計混乱させてしまったのではないかと心配しておりましたが、まぁよかったですかね。
> 。「じゃかじゃか」おいでいただける日を楽しみにしております。
お~、papalinのブログに、ホステス誕生~~!
これで私も"ROM"になれるかな?
なんてね。
先日松本で、モーツァルトのレクイエム「ランドン版」を買ってまいりました。
「ランドン版」、初めてです。ここのところ、中毒のようにレクイエムを聴いていたので、CD屋さんでも、このCDのタイトルが真っ先に目に飛び込んできてしまいました。
ブルーノ・ヴァイルという指揮者は勉強不足の私にはなじみがありませんでしたが、ターフェルムジーク・バロック管弦楽団という名前は、どこかで聞いたかなと言う感じで買ったのですが。
それ以来、前にも増して毎日毎日、「モツレク」ばかり・・・
フォーレのときもそうでしたが、のめり込んで、消耗するタイプです。もうそろそろ止めなくてはと思いながらも、加速度が付いた勢いはなかなか止まってくれません。
papalinさん、何か解毒剤を処方していただけませんか?
はい、天使さんの絵が描かれたジャケットのCDですね。aostaさん、実はPapalinはモツレク収集家なのですよ。(笑) 良さげなのは鼻が利きます。
モーツァルトのレクイエムは、未完のまま彼が亡くなってしまったので、一番弟子のジュスマイヤーが補筆した版が一般的です。しかし彼は、音楽的素養がイマイチでした。なので、モーツァルトなら絶対に犯さないオーケストレーションのミス(平行8度など)を平気でしていたりします。そんな事情もあってか、後世の音楽家・研究家たちが、それぞれ独自の編曲、補筆を行なっています。ランドン版もその一つです。
お堅いことはそのくらいにして、この演奏は、ソプラノ・パートが少年合唱で歌われている点が好きです。古楽器を用いた演奏ですが、演奏の難しい古楽器の木管楽器の演奏が、さぞ難しそうで、今一という感もありますが、今はやりのピリオド楽器による演奏としては、中庸に位置する演奏ではないかと思います。キレはそこそこありますが、コクが今一かなぁ。
肝心な依頼事項への回答を書き忘れました。
やはり、解毒剤は、毒をもって毒を制すというのは如何なものでしょう。ヴェルディのレクイエムなんか、もってこいだと思いますが...。
でなかったら、モーツァルトの戴冠ミサ曲なんかも宜しいかと思います。フォーレは症状を悪化させます。ましてやPapalinnoフォーレは、精神錯乱状態になりかねません。
おはようございます。
「ランドン版」、キレはそこそこ、コクが今一。
あまりぴったりの表現でしたので、嬉しくなって、思わずわらいました。
どこかの、ビールの宣伝みたいですが本当にそんな感じです。
でも、響きが柔らかく、軽やかに(??)演奏されるので、寝る前聴くと重くならず「ちょうどいい感じ」です。
昨夜もヴァイルさんをお供に気持ちよく就寝いたしました。
この状態(首までどっぷり漬かっちゃった)もそう悪くはないと思っていたのですが、最近疲れます。神経が妙に過敏になりすぎた気がしてそろそろ潮時かもしれません。
ヴェルディですか。ベルディはカラヤンのものが一枚だけありました。
あぁでも、やっぱりモーツァルト。戴冠ミサにいたします(笑顔)
このCD、好きか嫌いか、どっちだ? と聴かれたら、好きな部類に入れますよ。ボーイ・ソプラノだけでも花丸ですから...。(笑)
恐れ入りました。
私がもっているのは、ベーム、カラヤン、コープマン、アーノンクールそしてヴァイル。
「収集家」のpapalinさん推薦版教えていただけますか?
まだまだ魅力的な「モツレク」たくさんあると思います。いろいろな演奏を聴いてみたいと思います。
それだけバラエティに富んだものをお持ちでしたら、言うことありません。しいて挙げるとすれば、これから公開予定の(後悔予定の?)、オールPapalin版でしょうか。これは眩暈がしますよ。(^^ゞ
初めて聴いたのは、やはりベーム。
ゴシック建築の伽藍を思わせるような、壮麗な演奏でした。カラヤンにいたっては言うに及ばず。
「年代によるオーケストラの変遷」?でしたか、その時代によってテンポの感覚が違うというようなことを書きましたが、このレクイエムの場合一番遅いベームで、63:63、一番速いのが先日買ったばかりのヴァイルで43:52。
なんと、20分近く速くなっています!
これって計算間違いじゃないですよねえ。
数学どころか「算数」の段階ですでに落ちこぼれていた私なので、なんども計算してみました。
たぶん、あっていると思います。
時間感覚というより、「版」の違いなのかしら?ベーム、カラヤンはジュスマイヤー版、ああでも、コープマンもジュスマイヤー版でした。
コープマンも速いです。46:00。
アーノンクールがバイヤー版で48:50。
これって、むしろそれぞれの指揮者の解釈の違いと考えた方がいいのかしら?
同じ版でも振る人が変われば演奏時間も当然変わってきますよね。
自分で仕掛けておいて、自分がメダパニ状態となっているaostaでした。
20分も違いますか、驚きですね。
僕は、バーンスタインの指揮するLDを持っているのですが、これがまたスローテンポなのですよ。僕のもっぱらの関心事は、このスローテンポで、合唱陣はどう歌うか...だったのですが、どこでブレスしているか、全くわからずでした。フィグーラ(循環呼吸)のできる人たちというわけでもあるまいし...。ただただひたすら驚きでしたね。
ヴァイルはかなり速い方でしょう。ひょっとしたら、僕の持っているCDの中でも一番速いかと思います。実はカラヤンのモツレク、僕が聴いた時期が悪かったのか、古楽器での演奏を知って以降に聴いたので、どこにどう収めたらいいか、宙ぶらりんのままでいます。
同じ版でも、指揮者によって、あるいは指揮者なしの場合は楽団によって、テンポのとり方が全く異なるから面白いですよね。こういうことが平然とおこなわれるのがクラシック音楽の面白いところだと思います。何百年と演奏が継がれていく、いろいろな解釈によって、いろいろな演奏が存在する、こういうのは他の音楽にはないですよね。
ちなみに、ヴァイルのランドン版ですが、ジュスマイヤーの補筆した楽譜を元に、オーケストレーションをいじったり(より良くとか、単純なミスを直したり)しただけで、まるっきり別の音楽になってもいませんし、小節数に変わりがあるわけでもありません。それでこんなに演奏時間が違うとは、驚きですね。
バーンスタイン、久しぶりにその名前を聞いたような気がします。
かつて、カラヤンと人気を二分していた時代もありました。けれども、カラヤンが現在に至ってもその存在感を失っていないのに対して、バーンスタインはいまひとつ、ぱっとしないというか、精彩を欠いているように思います。
私は、彼の全盛期にあってもその演奏に心惹かれた経験がほとんどありません。
よっぽど相性がわるいのでしょうか?
バーンスタインの指揮によるベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」、買って何年にもなりますが、まだ全曲を聴いておりません。
古楽器による演奏の走りとして、1983年に録音された、クリストファー・ホグウッド(そのままハリー・ポッターで使えそうな名前ですよね。)指揮の、エンシェント室内管弦楽団/合唱団による演奏のCDもお奨めです。ソプラノはエマ・カークビーが歌っていますよ。
こんな夜中に気づいてしまって、黙っていればいいものを ... 。
63:63って、63分63秒のこと? 64分3秒ではなくて?
何だかaostaさんが、ちょっと可愛かったです。
僕は彼は作曲家だと思っています。ウェスト・サイド・ストーリーの作曲家。カラヤンと顔がちょっと似ていましたね。でも、僕もバーンスタインの指揮する演奏は食わず嫌いでした。
ホグウッドですね。ありがとうございました。
早速、ささやかなコレクションに加えるといたしましょう。
>63:63って、63分63秒のこと?
きゃあ~、恥ずかしい!
あんなに何回も確かめたはずなのに、やっぱり算数ができない私です(泣)
正しくは、63分6.3秒。
計算は間違っていなかったのですが桁を間違えました。なんてトホホなaosta!
はい。何分かは計算しておりませんが、お奨めの一枚です。ホグワーツではないので、お間違いなきよう。
「63分6秒3」だったのですね。ごめんね、いぢめちゃって。でも、人間そういうところ(おっちょこちょいだったり、苦手なところ)もなくっちゃね。アインシュタインが舌を出している写真のことを今連想しました。
なぜかアップされた夢をみました。
まだ、「モツレク中毒」から完全に脱却できないでいる私には、嬉しいけれど、怖い夢でした。
ごめんなさい、アップはもう少し先になります。出し惜しみをしているわけでは...その通りです。(笑)