◆IL DIVO◆ モーツァルト 「レクイエム ニ短調 K.626」

Mozart "REQUIEM d-minor"
URL : http://papalin.yas.mu/W502/
◇公開日: 2006年2月12日
◇連続演奏時間: 52分33秒
◆録音日: 1992年5月~1993年8月
(31~32歳)
◆上記の英語の曲目名をクリックする
と、Papalinの音楽サイトに直行でき
ます。
合唱団に入って、まもなくの頃の録音です。私はまだこのモーツァルトのレクイエムを舞台で歌ったことがありません。機会がありましたら、是非歌わせて頂きたいと思っています。
例によって、この録音テープを何人かの方に1993年にお渡ししています。そのときに冊子を作りました。一太郎で作ったもので、フロッピー・ディスクはあるのですが、ドライブがありません。ですので、スキャナ読み込みで恐縮ですが、御覧頂けましたら幸いです。相変わらずおちゃらけています。お時間のない方は、終わりから3ページ目、2ページ目が読みどころかと存じます。
さて、実はこの作品にまつわる悲しい思い出があります。それは、この曲を、病床で聴いてくださり、「僕にもしものことがあったら、教会でこれを流してほしい。」と仰って下さって、その数ヵ月後に30代で帰らぬ人となられた大島さん。今日改めて大島さんにこの作品を捧げたいと思います。どうか安らかに...。
みなさまのご感想を、コメント欄に是非書いてください。
【写真】 1993年 所属合唱団の40周年記念パーティでの Papalin
![]() リコーダー |
![]() 多重唱(合唱) |
この記事へのコメント
Papalinが「パンフ」と言わないだけある。
1ページ目のイラストとタイトルロゴは、
Mamalinさんの作ですね?そして3ページ目
の写真はMamalin&Mylin母娘さんですね!?
こんなところにもPapalinの家族愛が・・・。
大変微笑ましく、羨ましく思いました。
(Papalin、今日は記事早いね、笑)
こんばんは!
「冊子」の1ページ目、mamalinさんの作。
コレはまさに私が敬愛して止まない、萩尾望都さまのスタイルそのものではありませんか!
髪の毛のラインといい、どこか虚ろな目線といい、
望都さまそのものです。
mamalinさんの学生時代というと・・・「トーマの心臓」あたりですか?
萩尾望都さま、「ポーの一族」から今に至るまでずーっとファンです。
「バルバラ異界」早く完結しないかとわくわくしながらまっています。
ああ、でもここはpapalinさんのブログでした!
しょして何よりもpapalinさんが心血を注いだであろうモーツァルトの、それも「レクイエム」
本題に戻らねばなりません。
mamalinさん、よろしければ違うところで望都さま談義できないでしょうか?(未練)
失礼いたしました。
モーツァルトのレクイエム、papalinさんの予告があるたびに期待と畏れでどきどきしながら、待っておりました。
フォーレをアップした際聴かせていただいた”ラクリモーサ”素晴らしかった。
あのときから全曲通しで聴いてみたいと強く思っておりました。
「畏れ」・・・モーツァルトに限らないのですが、素晴らしい音楽を聴いていると、完全にその中に取り込まれてしまうときがあります。
私にとって、このレクイエムは自分を見失いそうで一番怖い曲なのです。
まさに「憑かれた」状態で毎日毎日この曲ばかりを聴いていたときがありました。
ひたすら、「消失点」に向かっていくような感じ、と言ったらいいのでしょうか。
自分と、自分を取り巻く世界とが逆転していくような不思議な感覚の中にありました。
papalinさん、もし私がどこかに「飛んで」いってしまったら、ちゃんと捜索してくださいね。
いつもありがとうございます。内容がちょっと硬いので、dogachanか誰かが"落として"くれるといいなって思っていて、その通りになって(?)、喜んでいる、変なおじさんです。一杯、突っ込めるところがあるでしょう?
ご指摘の点...まず、表紙ですが、初版は僕が朱肉に指を落とし、指紋で「モツレク」という字を書いていたのですよ。それを見かねたMamalinが、サササっと書いてくれたのが第二版となりました。
3ページ目は、個人情報なので、スプレーで大分消してみましたが、やっぱりそれとなくわかりますかね。そのくらいがちょうどいいかと思いました。
たまにはゆっくりしたいじゃないですか。なので早く作りました。dogachanのブログにも、今日は行けそうです。ごめんね、最近は自分のだけでテンパッテいたりして。なのに、いつもコメントをありがとうございます。感謝しています。
Paplinあて送付いたしました。
ブログのコメントの合間(?)にギターを
ちょっと弾いてて「Papalinと一緒に演奏」
したらどうかな?って曲を添付しました。
『Walz』っていう中川イサト氏の曲です。
Papaliが気に入ってくれたらいいけど・・・
しかし・・・1/29から更新してない・・・。
少しはPapalinを見習おうっと!?
心は間違いなく注ぎました。
血は間違いなくどろどろです。
漫画、知りません、ごめんなさい。
Mamalinのブログに書けば、お返事必須。
モーツァルト、ご感想をお待ちしてます。
いい音楽かどうか、それは全く自信がないのですが、いい音楽に触れたから自分でも演奏したい、歌いたい、そう思ったのは確かです。
前作のフォーレは、実際にステージで歌うという事実があったのに対して、モーツァルトは、好きだから歌ったというものです。
フォーレよりちょっとはマシになったかなとも思うのですが、五十歩百歩ですね。
大丈夫です、この程度では飛んで行けません。
来ましたよ~、ブロードバンドという名のナローバンドに2MBのMP3ファイルが。(笑)
綺麗な曲ですね。ちょっと神経質そうな、でも、どこか気だるい感じの曲・・・・・これって、逆連想すると、ショパンじゃん。リコーダーと一番かけ離れたところにいる音楽家じゃん。正直、この雰囲気がリコーダーで出せるか自信はありません。でも、dogachanに聴いてもらって判断しましょう。ひょっとすると6月に共演...かな?
いいから。それでいいから。
僕の真似して毎日書かれたら、僕が追いつかないから。(笑) だからdogachanのペースでお願いしますよ。
マジな話、lavieさん、aostaさん、クララさんがブログ始めて、せっせと毎日書かれたら、きっと僕が死にます。ここを井戸端にして頂いているのは、僕にとっても幸せなことなのです。
今朝、もう一度全曲通して聴きました。
終曲の“コンムニオ”聖体拝領誦が、キリエのあの素晴らしいフーガーのうちに終わったときには、思わず吐息。幸福な脱力感。
レクイエムを聴いて幸福とは、おかしな感想かもしれません。でも、papalinさんの演奏は、確かにそうした魂の高揚感を私に与えてくれました。
前回のフォーレのレクイエム。
もうそれで充分とさえ思えた素晴らしいものでしたが、このモーツァルトにはそれ以上の感動がありました。メリハリの利いた声楽部と、端正で情感のあるリコーダーの演奏、私が言うのもおこがましいのですが、長足の進歩ですね。
高音(ソプラノ)部分が多出する分、ご苦労も大きかったのではないかと思います。
サンクトゥスからベネディクトゥスにいたるところでは、発声や、音程に若干の乱れが目に(耳に?)付きましたが曲自体の魅力は損なわれていません。
美しく、感動的なレクイエムでした。
このモーツァルトのレクイエムも穏やかなアダージョで始まる一曲めの“イントロティウス”においても、「永遠の安息のための祈り」が美しく、荘重に歌われます。
けれどやがて、「父なる神の右に座し給いて、生ける者と死にたる者とを裁き給わん」との言葉通り、最後の審判の日に対する畏れと救いへの祈りへと変わって行きます。ここでは既に「死者のため」の音楽ではなく、今生きてある現存の人間の救いのための祈りと希求の音楽です。
この視点の転換に伴う劇的な高揚と祈りが、この曲の魅力であり、また素晴らしさでもあると思います。
papalinさんの「レクイエム」、リコーダーだけの伴奏と「一人多重唱」という、見方によっては困難な方法によって、霊的で重層的なこの曲を演奏されたということに驚きと尊敬を感じます。
ただ、好きというだけでここまでやってしまわれるpapalinさん、いつもの「お調子者」とはあきらかに別人。やっぱり、「みずがめ座の怪人」???
最初の1,2ページ目で退散いたしました。これ以上大きくしてみることはできないのですね。
全部を読むのは至難の業。
気力の充実しているときに再度挑戦してみましょう。
ありがとうございます!
美しく、感動的なレクイエム.....身に余る言葉を頂きました。ええ、問題箇所を数えたら天文学的な数になることでしょうが、え? 問題箇所は一つ、すなわち全て? そうかも知れません。
aostaさんのお耳を弁護いたします。素人の音楽、気持ちだけが先走った音楽をあえてお褒め頂いて、とても嬉しいです。
PS:ベネディクトゥスは、実はお気に入りの曲なのであります。私の演奏がということではなくて、モーツァルトの作ったこの曲がお気に入りです。
僕が高校生の頃、つまりクラシック音楽にはまった頃、レクイエムは鎮魂曲と訳されましたが、最近では、この訳は正しくないということで、「死者のためのミサ曲」が一般的になりました。確かにaostaさんが仰るように、使者の魂を鎮めるだけではありませんものね。最後の審判は、生きとし生けるもののための曲だったのですね。納得。
◆◆ いつもの「お調子者」とはあきらかに別人。
やっぱり、「みずがめ座の怪人」???
柔よく剛を制す。お調子者ですって? その通りです。柔があるから剛も生きる。その逆もまた真なり。Papalinの本当の姿は、果たしてどちらでしょうか。(謎)
あきらかに別人。 aostaさんへ
音楽はもちろん真剣ですが、パンフ改め冊子は、おちゃらけ&お調子者のPapalinが存分に顔を出しています。もうお気づきでしょうね。(笑)
画像をダブルクリックすると、画像だけのページが新たに開かれますよね。そこで再び、画像の上にマウスの矢印をおくと(置くだけですよ、クリックはしませんよ)、画像のメニューが表示されます。右下に、変な矢印のついた四角形のアイコンがでます。それをクリックすると、100%の大きさの画像、つまり、僕がこれなら何とか読めるだろうと思われた最小のサイズの画像になります。それはやってみましたか?
それでも困難だったら、faxでも入れましょうか?
知りませんでした。
「変な矢印のついた四角形のアイコン」なんだろうとは思ったのですが、下手なことをして取り返しの付かないことになったら大変と、見て見ぬふりをしておりました。(過去に苦い経験があります)
ご指示通りに遣ってみましたら、くっきり、はっきり!これなら大丈夫。余裕で読むことができますね。
これで、ひとつお利口になりました。
papalinさん、ありがとうございます!
いわゆる「死者のためのミサ曲」
アダージョのゆっくりと静かな歩みにも似た前奏で始まり、バスからテノール、アルト、ソプラノと次々に重なっていって"et lux perpetua"と歌う部分で完全に一つになった時の身が震えるような感動。
「永遠の安息に久遠の光が届くように」と畏敬にみちて歌われる荘重な祈りの曲です。
前奏部分のリコーダー、うっとりするような美しさですね。柔らかく、印象的なリズムを刻んでゆくバス・リコーダー(?)の響き。
その音に軽やかに乗っていくソプラノリコーダーの音色は透明に澄んで、高みへ高みへと誘うようです。
papalinさんの「ソプラノ」も慣れるとそんなに違和感はありません(笑)
それどころか、独唱部分ではとても美しい!
キリエに入る前、つまり入祭誦の最後
et lux perpetua luceateisのフェルマータの下に"attacca"の記号が!
テレマンのブログで、「attaccaもまた音楽なのです。」とpapalinさんが教えてくださった、あの"attacca"ですよね。終止形に持っていかない、とも仰いましたっけ。
この入祭誦からキリエへと移っていく場面、
まさに"attacca"です。
モーツァルトが、自分の筆で書いたのは、ラクリモーサの8小節まで。残りの部分の完成は、コンスタンツェに委ねられました。なにせ、モーツァルトの生前に前金を受け取っていること、そして、完成しないと残りの金額を受け取れないこと、そういう切実な現実がコンスタンツェにはあったのですね。彼女は、この曲を完成させるに相応しい人を何人か当たります。そして一旦は依頼するものの、荷が重いと返されてしまう...そんなことを繰り返した後、この仕事を完成させたのは、生前モーツァルトと一緒にこの曲の完成部分を歌ったこともあった、弟子のジュスマイヤー。天使♪さんからの情報によると、コンスタンツェとただならぬ関係であった弟子です。彼が終わりまで完成させたのです。現代において、ジュスマイヤーの稚拙さは誰もが指摘するところですが、でも彼がいなかったら、僕らはこの曲の存在を知らなかった。とすると、やはりジュスマイヤーには敬意を払って当然と思います。
ラクリモーサ以降の曲、ベネディクトゥスも含めて、ジュスマイヤーの作とされますが、モティーフはモーツァルトが病床で彼に伝えたのかもしれません。そうでした、ベネディクトゥスの旋律はモーツァルトが書いたものでした。だから、こんなにも美しいのです。
そうです。スコアを見ているからです。
ひと月ほど前、行きつけの本屋さんでみつけました。
今までスコアが置いてあるなんて、全く気がつきませんでしたのに、興味を持ったとたん、片隅の棚にスコアが並んでいることの気が付きました。
即、購入。まさか、papalinさんの作品がアップされるなどと考えてもいませんでしたが、こうして早速役に立っています(笑)
まぁどうしましょう。aostaさんがそれ以上お利口になったらどうなってしまうのでしょう。想像もつきませんわ。と、なぜか女口調。
そうそう、トリノ冬季オリンピック。日本人の選手村はaostaなんですってね。当然知っていました?
oastaさんは妹さん?
このコメントには沢山反応しましたよ~。
まず、リコーダーの前奏。リズムを刻んでいるのはバス・リコーダーで正解です。よくできました。僕は全く意識していなかったのですが、こうしてIL DIVOへのアップにあたって聴き直してみたら、ピリオド楽器の奏法(ノンビブラートによる、中を膨らませた音の作り方)をしているではないですか。モーツァルトは既にバロック時代ではありません。なのに、ちゃんと古楽器奏法をしている自分に、ちょっと感動しました。
et lux perpetua ・・・ はい、それをユニゾンといいます。合唱と伴奏との対話も面白いですよね。面白い? 不謹慎かなぁ。
Papalinのソプラノとは、リコーダーではなく、歌の方のソプラノですね? インチキで長3度下で歌っていますが、それでも実音でF(ファ)まで出たということですよ。モツレクの最高音はA(ラ)ですかラ。慣れるって恐ろしいことですね~。アバタもエクボですか?
いいことを言う人がいますね~。僕でしたか? こりゃまた失礼しました。attaccaの後の次の音が出るまでの無音状態は、まさしく音楽の一部なのです。そういう感じが出てましたかね?
やはりそうでしたか。どこでattaccaを知ったのかなぁ。CDのライナーノーツに楽譜が載っていたのかなぁ。もしや...当たりました。スコアを手に入れたのですね。素晴らしい。諏訪の本屋さんでも、クラシック音楽のスコアを置いているお店があるのですね。感心です。
スコアを見ながら聴くのも面白いものです。いろんな発見があるでしょう。rit.なんて書いてないのに勝手に通例としてみなrit.するんだなぁとか、第九のフィナーレなんて、ベートーヴェンの指示を忠実に守っている指揮者なんて殆どいないことに気づいたり...。結構お勉強になります。もしも全音だったら、冒頭に長い解説がありますでしょう? テーマの提示、展開、再現、第2テーマの出現、対旋律...いろいろ楽しいですよ。僕はそれを当該小節に書き込みました。そうして聴きました。たまに指揮棒を持ったりなんかしてね。お勉強になります。
心配には及びません。ちゃんとわかっています。だけどスコアを見ながらっての、ちょっと緊張するね。この音、間違ってるじゃんなんてバレちゃうしね。
トリノの日本人選手村、aostaに決まったというニュースはもう随分前のNHKニュースで知りました。
懐かしいaosta、でもその映像はほとんど流れません。
今でも、屋根の上に石を乗っけた家はあるのかしら?あの陽気なトラットゥリアは、まだあるかしら?
土の香りがした野生的なaostaの赤ワインは、思い切りよく大きなジャグに入ったまま、ドカンとテーブルの上に載っているかしら?
確かに。aostaさんをきっかけに、aostaという街を調べて、ちょっとだけ風景や街の景色を記憶にとどめただけに、僕も残念です。でも今は冬だから、あのみずみずしく美しい景色は見られないですね。
「主よ哀れみ給え、キリスト哀れみ給え」と繰り返されるこの曲は、カトリック教会のミサ、また一部のプロテスタント教会の礼拝時、神父(または牧師)の先導にしたがってなされる「罪の告白」のあと歌われます。自らの罪の赦しと神の慈悲を請い願う、祈りの歌です。もちろん、このレクイエムのキリエと同じスタイルでうたわれるものではありませんが、同じ言葉、同じ繰り返しです。
このレクイエムの中で歌われる「キリエ」は死者の魂のために神の哀れみを請うと同時に、これから同じ死すべき運命にある、現在の自身の赦しをも願うものではないかと思います。
この、モーツァルトの「キリエ」は、数あるキリエの中でも特に壮麗で畏敬に満ちたものだと思うのですが、なんと言っても、あのフーガの素晴らしさ!
宇宙的な祈りのエネルギーが何度も何度も繰り返し押し寄せてきて、津波のような力を感じます。
こんなにも圧倒的な迫力で迫ってくる合唱曲が他にあるでしょうか?
キリエの迫力、すごいですね。歌うのも大変でした。練習一回、次は録音、その繰り返しでしたので、こういうスピード感溢れる、細かい音形の曲は一番大変でした。
キリエ・エレイソンだけの歌詞。こういうのは、日本の歌にはないですよね。しかも、モーツァルトだけでなく、欧州のキリスト教徒の作曲家はみな同じテクストに基づいて作曲される。そういうのは、宗教曲のほかにはないのではないでしょうか。
この「怒り」とは神の怒りです。
黙示録に書き記された「最後の審判」における神の怒り。人は神の怒りの前に逃げるすべもありません。
ここで、人はキリストによって「生と死」に分けられるのです。
シュトルム・ウントドランク“疾風怒濤”のようなこの曲をpapalinさんはリコーダーの伴奏だけで歌われました。これは、凄いことだと思います。
本来ヴァイオリンで演奏される部分なのですね。
連綿と続くソプラノ・リコーダーの細かなリズム。なんともいえない不安をかきたてる演奏です。
はい。歌が難しかったのがキリエで、リコーダー伴奏が難しかったのが、この怒りの日でした。ものずごい迫力ある楽譜にPapalinの方が押され気味でした。
バイオリンでの本当の演奏は、この倍ジャカジャカやるんです。リコーダーでやってみたのですが、うるさいだけで効果なしと判明したので、こういう演奏にしてみました。確かそうだったと思います。
何かにせき立てられるような、追われるような、一時も心が落ち着かない不安な気持ち。
まるで責めるように、これでもかこれでもかと、あのソプラノは追いかけてきますね。
「逃れられない神の怒り」から逃れようとする、はかない試み。焦燥感。
そして、唐突な終止。
そこでぱっと何かが絶たれるような終わり方です。
私には、何か精神的なものを振り払うかのような、意志的な終わり方に思えます。
もともとのヴァイオリンの演奏と比べてみる必要も意味もないと思います。
これはpapalinさんの「怒りの日」です。
リコーダーの演奏、素晴らしいと思います。
Dies iraeの終わり方ですね。確かに突っ走ったあと、突然、rit.することもなく、インテンポでピタッと止まります。Dies iraeの楽譜から得たインスピレーションは、やはり神の執拗なまでの責めですね。次のTuba mirumへのつながりがまた何ともいえません。
ヴァイオリンと比べる必要はないですか。たしかに、これは、もう私のオリジナル楽譜に基づいたオリジナルの演奏といっていいかも知れません。比べるとしたら、僕の頭の中にあるモーツァルトのレクイエム...でしょうね。
褒めていただくと、やっぱり嬉しいものです。ありがとうございます。
バスからテノールへ、そしてアルト、ソプラノと素晴らしい独唱が、つぎつぎとバトンを渡すように歌われていく美しい部分ですね。
特にテノールとアルトは本当に美しい。
一番最初に歌い始めるバスは、最低音に加えて長いフレージング。
papalinさん、ちょっと苦しそうです。
続くテノールが歌い始めるとほっといたします(笑) テノール、アルト、もともとpapalinさんの自然な音域ですよね。
無理がなく、暖かい本当に素敵なお声です。
「不思議なラッパが」というタイトルだけ見れば、そしてこれらの美しい曲を聴いただけでは、穏やかで安寧に満ちた曲のように思ってしまいますが、この「ラッパ」はそうした平和なラッパではありません。
最後の審判に当たって、生ける者と死せる者、全て神の御前に呼び集めるための、ラッパの音なのですね。
日本語って難しいです。アンダンテの穏やかなテンポで始まるのは、Dies iraeではなくて、Tuba mirumですよね。あ~よかった。
確かに、四人のソリストの中で、一番定評があるのは、テナーです。(笑) この曲は美しい独唱者の歌による四重唱です。
そうですか...恐いTuba(ラッパ)なのですね。恐れ入りました。
仰るとおりですね。“Tuba mirum”です。
このラッパ、どこに出てくるかと調べてみました。
確信をもって指摘はできないのですが、多分、「第七の封印」が解かれたあと七人の天使たちが吹き鳴らすラッパ、それもの第七の天使が吹くラッパではないかしら?
Tuba mirumに限らず、このSequentia“続誦”で歌われているの「ヨハネの黙示録」の世界です。
そこにあるのは「怒り」「畏れ」「嘆き」そしてひたすらなる救いへの「祈り」でしょうか・・・
天使がラッパを吹き鳴らすとは知りませんでした。そういえば、ボッティチェリのビーナスの誕生に、天使がラッパを吹いている絵がありませんでしたか? ひょっとしたら違っているかも。でも、ホッペを膨らめた天使(ベビー・エンジェル)がラッパを吹いている絵がありましたよね。
怒り、畏れ、嘆き、そしてひたすらなる救いへの祈り...そういう意味だったのですね。とってもお勉強になります。
記事ごとに添付される写真には、その選択になにかの基準があるのでしょうか?
今回の「レクイエム」とおかしな帽子のお写真はどうつながるのですか?このころ、演奏されたということのほかに何か意味はあるのでしょうか。
およそ「レクイエム」的でない写真のように思えてしまうのですが・・・
それとも、これがpapalin流なのかとも・・・
う~~ん!でも、やっぱりミスマッチ!
やっときましたか、写真に対するレスが。(笑)
レクイエム・・・どんなに演奏がへたっぴだったとしても、その響き、その意味のもつ大きさとか、畏れだとか、間違いなく硬い内容の音楽です。
そこで、読者(リスナー)の皆様に、なんとかとりつく島を用意して差し上げないといけないという、僕の細やかな気持ちが(?)働いています。
ですので、このブログには、出来る限りの仕掛けがしてあり、写真で和む、笑えるとか、冊子の演奏者紹介で和む、笑えるとか、これでも結構苦労しています。
aostaさんご指摘の通り、写真は全てポートレイトを使うことに決めています。そして、その作品が録音された年月日になるべく近いものを用意しています。
今回の写真は、正装ではないにしても、準礼装、私の祖父(彼はとてもおしゃれだったようです)の愛用のハットを身につけてみました。こうしてみますと、クロス・タイがちゃちくみえますね。
そうか、ご了承を。
やっときましたか、写真に対するレスが。(笑)
レクイエム・・・どんなに演奏がへたっぴだったとしても、その響き、その意味のもつ大きさとか、畏れだとか、間違いなく硬い内容の音楽です。
そこで、読者(リスナー)の皆様に、なんとかとりつく島を用意して差し上げないといけないという、僕の細やかな気持ちが(?)働いています。
ですので、このブログには、出来る限りの仕掛けがしてあり、写真で和む、笑えるとか、冊子の演奏者紹介で和む、笑えるとか、これでも結構苦労しています。
aostaさんご指摘の通り、写真は全てポートレイトを使うことに決めています。そして、その作品が録音された年月日になるべく近いものを用意しています。
今回の写真は、正装ではないにしても、準礼装、私の祖父(彼はとてもおしゃれだったようです)の愛用のハットを身につけてみました。こうしてみますと、クロス・タイがちゃちくみえますね。
どうか、ご了承を。
でも、お祖父様の方がお顔は小さかったのでしょうか?クロス・タイというより、お帽子のほうが小さく見えます。
その昔。「ピンキーとキラーズ」というグループがありました。わたしにはどうしてもpapalinさんがピンキーに見えてしかたないのですが・・・
ボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」に描かれているのはキリスト教でいう「天使」ではありません。確かにその背中に大きな翼を持ってはいますが。これはギリシャ神話の風の神ゼフィロスだと思われます。もうひとりの神様にも名前があるはずですが、ちょっと思い出せません。
papalinさんも、ご存知のようにいわゆる「西欧文明」の底辺にある大きな文化は二つあります。
一つはキリスト教文化。そしてもう一つはギリシャ・ローマ文化です。
このボッティチェルリの絵はギリシャ神話の中の美の女神「ヴィーナス」がテーマです。
ギリシャ神話に登場する翼のある神様は、ここに描かれている風神とともに「エロス」とよばれる愛の神様がいます。ローマ神話では「キューピッド」という名で知られるこの小さな神様は、その名の通り、愛の神様でありその手にはたいてい弓を持っています。
そして、この神様が男の子であることは絵を見れば一目瞭然(意味はおわかりですよね?)
キリスト教の中で幼児の姿をもって描かれる天使は智天使“ケルヴィム”であり、この場合顔と翼だけで描かれることが多いようです。
いつも、知ったような顔をして重箱の隅をつついているaostaとは、思わないでくださいね。
あはは。僕の祖父は、僕が生まれる前に他界していたのですが、小柄だったようです。160cmあったかどうか。残っていた燕尾服(すごいよね)をMamalinが見つけて、これあたしに頂戴っていってとってあるのですが、Mamalinにも小さすぎますから、本当に小柄だったのでしょう。
しかし、よく見てますね。この帽子、全然頭に入っていません。頭に乗せているだけです。(^_^;)
ピンキーですか、そうでしたね、株っていましたよね。ピンキーでよかったです。パンチョって言われたら、どうしようかとひやひやしてました...。
ヴィーナス・・・女神・・・キリスト教ではないですね。僕はその辺りがごちゃごちゃなので、宜しくご教授願います。で、あれは天使でなく、神様ゼフィロスさんなのですね。(どういう神だかぜんぜん知りませんが)「エロス」については前も書いていただきました。体系的に覚えないと、覚えられなくて、済みません。
そうですか? そんな風に思ったことないですけれど。むしろ、いろいろ知らない"その道"のお話が聴けたりして嬉しく思っています。
それに、aostaさんは、算数が苦手なので、許しちゃいますって何を許すの?
ブログ・コメントのコツは、重箱の隅とか揚げ足なのかもしれないなぁ・・・なんて思ったりして。
こんばんは。
"Rex tremendae"から"Recordare"
だんだん、コメント書くのが辛くなります。
聴いたことを表現するには、言葉が足りません。
誰かほかに書いてくださる方はいないのでしょうか?
この「レクイエム」に限らないことなのでしょうが、合唱の部分の楽譜は、いたってシンプルというか単純なんですね。
それが「音」・(声)で再現されたとたん、この世のものとも思えないくらい美しいハーモニーとなることには、驚かされるばかりです。
"Recordare"のカノンの美しさはどうでしょう!
papalinさんのように「楽譜」を読むだけで音楽を理解できるといった力のない私は、演奏を聴いて始めて、その「音楽」と出会います。
何もないところから、奇跡のように生まれる「美しすぎるもの」。
とうてい、言葉では言い表すことができません。
サリエリがモーツァルトを妬んだときの彼の胸の痛みがほんの少しだけ判るような気がする、と言ったら笑いますか?
私がいかに「徒手空拳」のまま暴挙に至ろうとしているかを思い知るのは、この"Recordare"を、そしておそらくは"Lacrimosa"を聴いて打ちのめされるのを待つまでもないのかもしれません。
"Lacrimosa"はもうすでに私の心のなかで溢れてしまいました。
aoちゃん、そんなに無理しなくていいよ。きっとaoちゃんのことだから、自分で決まりを作って、それを守り通そうと頑張っているのでしょうけれど、言葉が見つからないときは、それが感想だから。(笑)
僕も楽譜を見ただけでは、それもオーケストラ譜なんて尚のこと、そこに書かれている音楽はわかりません。僕が演奏しているリコーダーが単旋律の楽器だから、単旋律の曲ならまだ何とか楽譜を見て頭の中で鳴らせることはできますが、やっぱりそれは偉業ですよ。でも、天使♪さんならどうでしょう。きっと楽譜がなくても鳴っちゃうタイプの方かも知れませんね。そういえば、最近お顔が見えませんが、お忙しいのでしょうか。
カノン、フーガ(リチェルカーレ)、いろいろよくご存知ですね。音楽理論とか楽典とか勉強されました?
Recordare(思いたまえ)とRecorder(リコーダー)、似てません? きっと語源は同じなのでしょう。そのRecordareのカノン、2度で絡みながら上昇していく音形の美しさ。モーツァルトの頭の中では、楽譜が演奏されるのではなくて、こうした美しいメロディの絡みが鳴り続けているのでしょうね。素晴らしい!
本当は、才能を開花させたその努力に嫉妬する...が正しいのかも知れません。モーツァルトは天才と言われますが、それでも人の子。父レオポルト(賃貸マンションではありません)から受けた教育、自分でしたであろう勉強、先人達の音楽、そういったものが、あのレクイエムという素晴らしい遺作を生んだのでしょうね。
僕もaostaさんの表現力には嫉妬しますよ。努力...しました?
ラクリモーサ:涙の日...。 この曲は、フォーレのレクイエムの"アンコール"として公開したものと同じ曲ですが、アーティキュレーションを変えてみました。他の楽章のように、Papalinも少しではありますが、オリジナリティを出そうと、インスピレーションを働かせてチャレンジしています。その最たる曲が、ラクリモーサです。この曲は有名なだけに、演奏する方は嫌ですよね。だって、皆さんよくご存知ですから。(注:もちろんクラシック・ファンの皆さん・・・ですよ)
僕の冒険、まんざらでもないように思っている、まさに自惚れ屋さんです。
モーツァルトの音楽には「魔」があります。
誰が、どのように演奏しているかに係わらず、その「魔」に共振して、深みから抜け出せなくなるときがあります。
ほほう、モーツァルトの音楽には、魔がある。もう少し説明していただけますか?
昨夜は、おっと、もう日付が変わりましたからおとといの晩になりますか?
papalinさんの"Recordare"の美しさの前には、私の言葉などただのゴミのように思えて何も書けませんでした。(レクイエム意外のことはなんだかんだ言いながら書き込みしてましたけれど・・・)
一日、モーツァルトから離れて何とか回復いたしました。
一番の気分転換になったのは、メグ・ライアンの「ニューヨークの恋人」。吹き替えの映画はほとんど見ないのですが、今夜は2時間テレビの前に釘付けでした。映画の出来からすれば、「いまいち」の作品なのかもしれませんが、彼女の映画はどれも明るく変に難しくなく安心して楽しめます。
今日、2月18日はpapalinさんのお誕生日ですね。まずは、お祝いの言葉を。
♪Happy Birthday dear Papalinさん
歌なしで、ゴメンナサイ。
クラシック、それもバロック音楽が隙だったら、特別に「勉強」などしなくても自然に了解されるものだと思います。
「カノン」については、中学のころ文化祭の放送劇で音楽を担当したことがありました。
宮沢賢治の「よだかの星」。
だれからも見放され、生きていくこととは、とどのつまり、自分以外の生き物の生命を絶つことに他ならないと気づいたよだかが、自らの体を焼き尽くすために天の高みへと飛翔する場面。
ここで使ったのが、パッヘルベルの「カノンとジーグ」でした。どこまでも、どこまでも昇っていくよだかの飛翔のイメージをこのカノンに託したかったのです。
フーガを放送劇につかったことはありませんが「フーガ」そのものが曲名になっているものもたくさんありますよね。「バロック音楽の楽しみ」で教えられたことは、やまほどありました。
バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」。
高校のときの文化祭。こちらは「還魂記」という中国を舞台にした、魂を取り替えるという摩訶不思議な物語。チェレスタの音は妙にぴったりでした。
算数だけでなく、機械にも弱いaostaは舞台の袖で、ばかでかいオープン・リールを必死で操作していました。
コメントの主旨とは違うところで失敬ですが、メグ・ライアンは、僕大好きです。理由は可愛いからです。恐らく僕らと同じ年代だと思います。この年にして、いまだにラブ・ロマンス路線がヒットするというのはすごいことです。彼女も、いくつか違うキャラの映画に出てはみるもの、やっぱりこの路線がしっくり来るのですね。自他共に認めるところではないでしょうか。そしてもう一人。メラニー・グリフィス。好きでした。理由は可愛いからです。
褒めて下さって、心から感謝します。僕も、この曲は、中の上の出来だと思っています。(笑)
歌っていてとても気持ちいい曲です。オクターブ違いの2度の進行がたまらないですね。本当に素晴らしい素敵ないい曲です。
どうもありがとうございます。
一年前は、会ったこともない他人でしたのに、
いつのまにか、ブログでかまうお相手にまで
成長されました。(?)
aostaさん自身も、パソコンに触り初めて、
まだ半年程度でしょう?
その上達振りには驚いてしまいます。
もともとお持ちの文学的センスと、
音楽的センスが融合して、
PCという"道具"が活きましたよね。
これからも宜しくお願いいたします。
きっと、僕のやんちゃさは変わりません。
そうでした、aostaさんは、この朝6:15からのFM放送の番組を、リアルタイムで聴かれていたのでしたね。皆川達夫さんとか、藁科雅美さんとかが解説されていましたよね。アレ、藁科さんは、夜の番組だったっけ?
その番組を聴くのは、音楽を聴くのはもちろんのこと、その曲にまつわるストーリーだとか、カノンやフーガの説明など、音楽学のお話もあり、お勉強になりました。
僕は炊飯器用のタイマーを使って録音をしておいて、高校から帰ってきてから聴いていました。
そうでした、時代は既にカセットテープの時代でしたが、なぜか放送室はオープンリールでしたね。
僕は違う意味で(多重録音をする目的で)、4トラックのMTR(マルチ・トラック・レコーダー)を持っていましたが、友人・知人でオープンリールを持っている人は、結構年上の人しかいませんでした。そういう方たちに、オープンリールのMTRを持っていますというと、にっこりされました。「ほう、お前もか。」そんな微笑だったように思います。
そうです、そうです。
優しいお馬さんのようなお顔をした藁科雅美さん、(藁科さん、決して悪口ではありません)ゆっくりとした語り口、なつかしいですね。
皆川達夫さん、音楽関係のご著書も多い方ですね。
いまでも時々取り出しては眺めることがあります。
私が聴いていたころは、大御所、吉田秀和さんもお出ましになっていらっしやいましたが、papalinさんは聴かれたことありませんでしたか?
マイケル・ダグラスと共演した「嵐の中で輝いて」もメラニー・グリフィスでしたっけ?
メグ・ライアンとメラニー・グリフィス。
似ていませんか?
はい、存じ上げておりますよ。懐かしいです。
どなただったか、Papalinの作る、Papalin演奏のナレーションつきの編集テープを聴いて、「バロック音楽の楽しみ」みたいですねと言われたことがあります。やっぱり影響はあるでしょうね。dogachanみたいに、パロっていたような気もします。何だ僕もdogachanに似ているってこと? やだな~。
僕があげた2人が似ていると...。よく気づきましたね。はい、あの路線の顔、ストーリー、役どころがお気に入りなのですね。でも、僕が知っているのは、1988年の「ワーキング・ガール」だけなので、嵐の中で・・・は見たことがありません。メグと違って、セクシー系にいちゃいましたので、ばいば~いでした。(笑)
この方が、変に肩に力が入らず素直に音楽を聴けるような感じです。
"Confutatis"のろわれた者たち・・・
美しい曲です。
papalinさんの朗々と響く、バスとテノール、(アルコールのせいでしょうか)、素晴らしく魅力的です。
思わず、何度も繰り返し聴いてしまいました。
特にテノール・・・
艶やかで張りのある、惚れ惚れする声だと思います。
(やっぱり、ワインのせい?ちょっと、飲みすぎ?)
歌詞からすれば、絶大にして絶対なる神の威光の前に「ひれ伏して」救いを希求する祈りです。
「心は灰のようにくだけて・・・」ひたすらに、自らを低くして祈る「最後のときの平安」
それにしても、美しい。sigh。
そして、一度終わったかに見える沈黙のあとの、不思議な和音。またもやatacca。
"Lacrimosa"
あまりにも有名な曲。
静かに刻まれていく、よみがえった死者のための祈りの曲ですね。
ここでよみがえる「罪びと」は、祝福され、再びの命を与えられるために死から呼び戻されたのではありません。裁きのために神の前に引き出されるためにつかの間の生を与えられたにすぎないのです。
「最後の審判」によって、「二度目の死」を死ぬためのよみがえり。
そうした罪びとのために哀れみを請う「涙の日」。
沈黙さえも美しいこの曲。
最後に歌われる"Amen"の歌詞はこのレクイエムが始まって最初で最後の"Amen"ですね。
"Amen"・・・「かく、なりますように」という意味のラテン語です。
"Lacrimosa" よみがえった死者のための"Amen"でしょうか?"Sequentia"全ての祈りのための"Amen"なのでしょうか?多分後者?
papalinさんは、どう思われます?
アルコールのせい?・・・・・とか、何でもっと素直にならないのでしょう。素晴らしいのですよ。モーツァルトが。
付点のリズムって、鋭く歌うときびきびしますよね。楽譜に書かれている付点の数を一つ増やして演奏するといいみたい。そんな冒険をしています。モーツァルトの指示通りではありません。
後に続く女声合唱と、男声合唱のコントラストが素晴らしいですよね。心憎いばかりです。
そして、Lacrimosaへ.....。
ごめんなさい、Papalinには前者、すなわち、蘇った死者へのものとしか理解できませんでした。
元々のミサ典礼文では、最終句は「あわれみたまえ」から「平和を与えたまえ」に転じ(10世紀のこと)、さらに死者のためのミサ曲(すなわちレクイエヌ)では、この部分が「かれらにとわのやすらぎを与えたまえ」となったようです。さらに、ミサの中でのパンを裂く式は、ミサの中心部であり、時間的にもかなり長い時間がかかったようで、その長い時間に一つの曲を歌うようになった(7世紀のこと)...それが Agnus Dei と理解しています。
浅学な私には、かれら=蘇った死者と、普通に考えていたのですが...。
降参です。教えてくださいな。
おはようございます。
昨日、外出先でたまたまこのレクイエムの"Confutatis"から"Lacrimosa"の一部を聴く機会がありました。
わずか数フレーズを聴いただけで、私の心の中に大きな熱帯性低気圧発声の予兆が顕著に表われてました。
最初の音だけで大雨の気配。
どんな集中豪雨になるやも知れず、そのまま聴き続けることはできませんでした。家に帰ってからも、「あの時」のメロディーと音が頭から離れませんでした。
そしてあの時の、一瞬魂をつかまれたかのような身震いをずっと取っておきたいとも思いました。
ですからモーツァルトに限らず、ゆうべは音楽は一切なし。私の心の中のレクイエムの断片だけを限りなく再現しておりました。
ある音楽(断片でもいいのですが)が、頭から離れないことってありますよね。とにかく一日中鳴り続けているっていうこと。それが例え大好きな曲であっても、困っちゃうんですよ、離れなくて。歩いていても、歩幅のリズムに合わせてついて来たり...。そういうことってありませんか?
一日中、鳴り続けて離れない。断片がいつの間にか成長して一曲になってしまいました。
先ほどから降り始めた雪さえも、同じリズム同じメロディーで落ちてきます。
スゴ! 凄過ぎます。 テレビか新聞の取材を受けるべきですね。雪の降るのもモーツァルトなんて人は、きっといませんよ。テレビの番組名ですか? それは当然、奇人変人コーナーでしょうね。(笑)
モーツァルトが素晴らしいのは言うまでもありません。でも、papalinさんの演奏も、魂を揺さぶられるほど美しいと、本当に心からそう思います。
アルコールに惑わされた、などとついぞ思ったことはありません。でも、そうでも言わなければと感嘆詞と賛辞の連続で、私自身が恥ずかしいのです。
はい。普段はにこにこと愛想の良い「おばさん」をしておりますが、その正体は相当の「奇人変人aosta001号」以後、お見知りおきを!
です。
そんなに深く考えてのコメントではなかったので、Papalinさんのお返事にたじたじとなってしまいました。
祈りが祈りである場合、どんな小さな祈りも最後は必ず"Amen"で終わります。
死者の永遠の安息のための祈り、自らの救いのための祈りに終始するこのレクイエムで“Amen”がこのLacrimosa"のおわりで一回だけというのがなんとも不思議に感じられました。
モーツァルトにお詳しいPapalinさんでしたら何かご存知ではないかと思ったのです。
やっと、"Offertorium"までやってまいりました。
第一曲めの"Domimine jesu Criste"
ここで歌われる二つの名前、大天使ミカエル、そして「イスラエル」の父祖であるアブラハム。
ミカエルは冥府と闇から光明のもとへと人々を導く「ひかり」そのものとして。
そして、紙から祝福されその系図からメシアが生まれるであろうことを約束されたアブラハム。
そしてアブラハムの名が登場してくると、もう明らかに曲想は違うものになっています。
リコーダーの伴奏も心なしか明るく軽ろやかに、この美しいフーガを支えているかのようですね。
神とアブラハムとの契約(約束よりもっと拘束力の強い、必ず果たされるべきもの)こそは、「救いの契約」です。
罪によって深く底知れぬ闇に落ちた人間を、神の光の中に再び呼び戻すために、メシア・キリストを使わすという契約です。
繰り返されるアブラハムの名前は救いの希望。
この美しいフーガそのものですね。
穏やかに暖かくAndanteで始まるこの曲も、途中から
"Domimine jesu Criste"のアブラハムのフーガが再びあらわれます。
何度、聴いても美しいフーガです。
そして、澄んだきれの良いリコーダーの音。
短い曲ですが”Hostias"から”Benedictus"へと橋を架けるようにつなげて行く印象的な曲だと思います。
高く透明な音色のリコーダー伴奏とともに始まる穏やかな四声の合唱。
その背後でかすかに鳴っているのは低音弦のパートでしょうか。ともすれば、明るいソプラノ・リコーダーのメロディーのかげに隠れてしまいそうなその音。
耳を澄ましてなんとかその密やかな音を捕らえてみるとソプラノ・リコーダーとは対照的なリズムと、ゆったり落ち着いた美しいメロディーであることに驚かされます。
anctus,gloriaと続いてきた神への賛美の言葉はこの"hosanna"に至って最高潮となるのですね。
papalinさん、これはモーツァルトではなくジュスマイヤーの手になるものでしたかしら?
仮に、ジュスマイヤーの作としても、よく考えられた美しい作品だ思います。
四月号の"MOSTLY CLASSIC"で、なるほど!と思った言葉がありました。
『ブルックナーは日本ではまだ敬遠される向きもありますね。まずブルックナーはアルプスの自然と切り離して考えることは不可能ですし、バロック風の教会とも切り離せません。そしてもちろんカトリックの信仰とも切り離せません。そういった点で日本の皆さんには少し距離がある作曲家かもしれません。バッハやモーツァルトもそうですが曲の中でキリスト教がどんあ意味を持っているか、それをしっかり説明できないと、本当の音楽は出て来ないのです。
それに対して、「私は人間だ!」というところを強く打ち出すベートーヴェン。非常に面白い対比だと思います。』
文化的背景としてのキリスト教・・・
知らないより、たとえわずかでも知っていた方がより音楽に近づくことができるのかもしれない。
aostaの老婆心からでるダメ押しのコメント。自分自身の勉強のつもりです。どうぞ、お付き合いくださいませ、ませ、ませ??
ミュンヘン・バッハ合唱団の芸術監督だったハンス・マルティン・シュナイトの言葉です。
は、は、はずかしいな。でも、うれしいな。
なんか恐くない? 変なこと言ったかなぁ。
モーツァルトというより、ミサですよね。
長かったですね。やっと天使の登場です。
実はこのフーガですが、立体的なのです。合唱のフーガの裏で、オーケストラ(特に第一・第二バイオリン)も、独自のリズムでフーガを奏でているんですね。なんと巧妙な技でしょう。こういうのを自慢というか、鼻持ちならぬ装いで聴き手に伝えていたのでしょうね、モーツァルト大先生は。
この曲は、前半が、全ての合唱が同じリズムを刻む形式の歌:ホモフォニックで、後半に登場するアブラハムを連呼するところは、フーガ、つまり、ポリフォニックな構成になっているのですね。心憎い演出でもあります。これはモーツァルトの指示か、ジュスマイヤーの案か、知りませんけれど。
ここからは完全にモーツァルトの弟子だったジュスマイヤーの作とされていますよね。でも、ジュスマイヤーの作曲と補筆がなかったら、僕達は、モーツァルトの唯一のレクイエムを耳にすることはなかったかもしれない。そう考えると、才能的に多少問題があったにせよ、ジュスマイヤーの功績も称えられるべきですね。
さて、どの曲を指していらっしゃるのか迷いますが、前節のお返事でかきましたように、ァクリモーサの9小節目からは、モーツァルト以外の人間の作です。ジュスマイヤーと見るのが通説です。悪くはないと思います。
watashiの知る限りにおいては、ミサにあっては"Amen"は、ひとつの祈りが終わるごとに唱えられるものですが・・・
Papalinのキリスト教に対する関心は、今のところこれに集約されるといっても過言ではありません。ですので、aostaさんからの情報はとても貴重でありがたいのですよ。
"Sanctus"です。判りにくい書き方でごめんなさい。
コメントの流れでは、判読できませんか?
有名な方のコメントなのですね。
ごめんなさい、目がくっつきそうです。
この続きは、また明日ということで、
ご勘弁願います。 2/21:完
目が覚めました。"Amen"は、特別なミサ、死者のためのミサの時も、祈りが終わるごとに唱えられるのでしょうか。時間のあるときに、ちょっと調べてみますね。
やはりそうですよね。失礼があったり、私の思い込みが先行して間違ってはいけないと思ったの。
anctus,gloriaと続いてきた神への賛美の言葉・・・冒頭のはSanctusのSの欠けだろうけれど、Sanctusは、Gloriaより、ずっと後に出てくる曲なので、石橋を叩いたのです。Sanctus、これ、歌う方の立場からすると、とってもしんどい曲です。ロングトーンの連続って、結構酸欠状態になります。(笑)
これにはちょっと驚かされました。
リコーダーのトリルはPapalinさんのほかの曲で聴いていますので、美しいとは思っても、驚くことはなかったのですが、ここでは歌ってらっしゃるのですね!Papalinさんのトリル、始めてです(よね?)
まずアルトのソロで驚き、続くソプラノでのトリルにうっとりしました(笑)バスでは一回だけ(?)テノールのトリルはありましたか?
リコーダーでトリルを演奏されるのはなんとか想像できるのですが、歌でのトリル、声帯、腹筋(?)どのように使われるのか考えも及びません。
とまれ、これらのトリルがリコーダーのそれと呼応して独特の雰囲気になっているような気がします。
だれの手によるものかはともかく、とても美しい曲。Papalinさん、どのソ・パートも、その中に入り込んでうたってらっしゃいませんか?
"Benedictus"、歌うことの喜びを感じさせてくれる素晴らしい音楽だと思いました。
御名答です。そのパートのソリストになりきって歌います。アルトを歌うときは、長めの黒のワンピースを着て、ソプラノでは、それがノースリーブになります。(吐)
歌のトリルは難しいですね。僕ごときにはできません。それっぽく歌っているだけです。
「神の小羊」つまり、イエス・キリストのことですね。
人間の罪を贖い、その罪の身代わりとなって死んだキリストは、ユダヤ人が神への生贄として祭壇に捧げた羊になぞらえて、「神の小羊」と呼ばれます。
それぞれのパートが、ゆっくり、静かに「世の罪をのぞきたまう神の小羊」としてのキリストへ呼びかけ、永遠の安息を願うのですね。
「声を合わせて祈ることは、心を合わせて祈ること」
グレゴリア聖歌ではないまでも、ここでは音楽と祈りは自然に一つのものになっているように思います。
この作品、ジュスマイヤーの手が入っているとはいえ、私にはとてもモーツァルト的に聞こえてきます。
それは、メロディーや和声がモーツァルト的と言うことだけでなく、その畏敬の深さ、痛切さが、まさに私にとってのモーツァルトそのものだからでしょうか?
穏やかなひかりに照らされているようなモーツァルトだと思います。
ここでジュスマイヤーは、音楽が360度回転してこのレクイエムの最初の曲入祭誦とキリエへともどっていくことで、この壮大な曲を終わらせたのですね。
もしこの曲をモーツァルト本人が完成させていたら・・・とは誰しもが考えることだと思います。
私としては「入祭誦」と「キリエ」は本当に素晴らしいと心底思っていますので、ここで、再びこれらの曲が再現されることは望むところなのです。
歌詞が変わっても、最後の曲がそもそもの始まりの曲につながることによって、一つの円が完結する、というスタイルに、終わることのない祈りの繰り返しと循環を感じるからでしょうか。
とうとうやってきましたね。神の子羊:Agnus Dei:アニュス・デイ。
最近の若い人たちを見ていて感じることの一つに、自分とか、人間とか、そういうちっぽけなものではなくて、何かとてつもない大きな存在があって、それに畏れるとか敬うとかいうことはないのだろうかという疑問です。僕は、それが何かは明らかではないのですが、そういう大きなもの、大きな力というものを、物心ついた頃から感じていました。
Agnus Dei ・・・ 歌ってみて、そんなことを感じたのを覚えています。変でしょうか。
Agnus Dei ・・・ いい曲、モーツァルトらしい曲。
モーツァルトのレクイエムでは、すでに定番の一つかもしれません。壮麗にして荘重、巨大な伽藍をも思わせるその演奏が私の始めての「宗教曲」でした。
すべてを凌駕する圧倒的な迫力、それでいてなんと深い哀しみと祈り。底の見えない、切り立った淵に吸い込まれていくような恐ろしさと陶酔感。
数あるモーツァルトの作品の中で一つだけといわれたら私は躊躇することなくこの曲を選びます。
多くのレクイエムの中から一曲といわれても、やはりこの曲を選ぶでしょう。
私が一番書きたくて書けなかったところです。
言葉に置き換えること自体が既に不可能としか思えません。音楽によってしか音楽を語れないものがあるのです。
Papalinさんの演奏によるこの「レクイエム」は確かにモーツァルトを語っていると思います。
私がどんな言葉を操ってみても語りつくせないモーツァルトをPapalinさんの音楽は語っています。
同感です。ジュスマイヤーの安易な考えによってそうなってしまったというネガティブな見方をする評論家が少なくない中で、きっとaostaさんも、それだけCDをお持ちであれば、ライナーノーツにそうかかれたものを見たことがあるでしょう、がしかし、それでも、この輪廻を肯定するのですね。私も肯定派です。
ジュスマイヤーは、頭が良かったのかもしれない。この偉大な作品を自分が作曲して補うよりも、師匠であり、偉大な作曲家であったモーツァルトが書いたメロディをそのまま使う方がいいと考えたのではないえでしょうか。最初の方の曲の楽譜ができると、モーツァルトと一緒に合唱部分を歌ったりしていたジュスマイヤーです。モーツァルト師匠の作品の偉大さを一番身近で感じていた人なのです。
もしもの話で恐縮ですが、評論家が好き勝手に評論しているのは、モーツァルトが生きていてこの曲を完成させたのならば・・・という大きな前提が抜けているのです。モーツァルトは既に息絶えていたわけですから、その事実を踏まえた上でどうあるべきかを議論すべきです。
僕は上のような理由から、この聖体拝領誦による締めくくりは素晴らしいと感じています。
きっとこのCD、もしかしたらレコードだったかもしれませんが、aostaさんの宝物でしょうね。ずっと大事に、初めて聴いたときの思いを忘れないように、大切に大切にして下さいね。
僕はどの演奏がベストかですって? 真剣にいま考えているのですが、やっぱりこれしか思い浮かびません。それは...
サイフノ・ナカミガ・ヘルベルト・フォントニ・カランナッテ・ヤーン指揮、ムトウテツヤーズ・ウィンド・オーケストラ、ムトウテツヤズ・コーラス・グループ、ケトル、テッツァ、カレーライス、ワッシャーイスカウによる1992-3年録音版でしょうか。
言葉でないものが語る。目が語る。背中で語る。顔で語る。音楽で語る。
素晴らしい賛辞を頂戴しました。そして、ここまで、一曲一曲に丁寧な印象と、専門的な解説をつけてくださり、ありがとうございました。感謝します。
おはようございます。
私のほうこそ、拙いコメントにひとつひとつにPapaliさんの暖かな反応を頂きましたこと、本当に嬉しく、その励ましのおかげで、なんとか最後までたどり着いたかなと言う感じです。
同時に、宗教音楽に関しては私などより遥かに深い造詣をおもちのPapalinさんに、言わずもがなの「解説」をしてしまったことを、いまさらながら恥ずかしく申し訳ない気持ちでいっぱいです。
それも、何らかの客観的な資料に基づいたものならいざ知らず、うろ覚えのあやふやな記憶を元に書いたものも少なくありません。
調べようと思えばそれなりの資料もあったことにいまさらながら気が付きました。
裏づけに乏しい、主観的で思い込みの強い独りよがりなコメントばかりです。
ライナー・ノーツはしっかり読む方ですが必ずしも「その通り」には聴いていません。
「どこかの誰か」が書いた専門的で「かくあるべき」解説は私にとってあまり魅力的ではないのです。なんとも、言いようのない大きな力に魂が掴みこまれ、捕らわれて揺り動かされる時、そこにあるのはあるのは彼の音楽と私だけ。
主観的にしか、書けませんよね(笑)!
モーツァルトに関してはもっともっと書きたいのです。お付き合いいただけますか?
「木」ではなく「森」について書きたいのです。
そしてPapalinさんのご指導を仰ぎたく思います。
モーツァルトの音楽は謎と目くらましに満ちています。あの美しすぎる音楽に絶えず流れている、通奏低音のような哀しみには、「死」の予兆のような響きがありませんか?
旅から旅へとその人生の大半を「旅」のうちにすごし、その途中で多くの愛する家族、友人といったかけがえのない人々を失っていったモーツァルト。
その書簡集を読むとき、余りにも深い嘆き、慟哭に出会い言葉を失います。
あの道化たハチャメチャなモーツァルト、女好きで
スカトロジックな性癖さえも喧伝されるモーツァルトの、この絶望は何でしょう?痛切すぎる痛みはどこから来るのでしょう?
ご苦労様でした...これが一番適切な的を得たねぎらいの言葉かな? 私の知っていることを暖簾に腕押しみたいにかかれていますが、僕の情報源は楽譜であり、楽譜についているほんの僅かな解説であり、こと宗教そのものとの関係に及んでは、無知に近い状態でした。そういう中で、貴女から頂いたコメントは、本来の目的であったレクイエムの意味と、このモーツァルトが創造した音楽とを結び付けてくれる、非常に貴重なものでした。お礼を申し上げます。
そして、これらが、何も調べることなしに貴女の知識や貴女の考えになっていることに、再び驚きです。僕からのお返事は、経験的にですが、9割りは何も見ずにそのまま返答、でも、残りの1割は、やっぱり書き物を調べないと書けないものでした。それだけに、真剣Papalinを具間みせることができたかと思います。
な~んちゃって言ったりなんかして。(地)
主観的に感じることの方が、左脳で論理的にたまには誤解も含んで誤認識するより、はるかに大切なことであり、それはもちろん時代的な背景、環境、文化、そういうものが多少でも多大でも影響を与えているとしても、最後は楽譜。楽譜はそうした背景ををすべて呑み込んで、普遍的なものとして存在するのだと信じています。
その楽譜から、何をどれだけ読取ることができるか...僕の音楽の師匠(と勝手に言わせていただいている)の天使♪さんには到底かなわないのですが、でもそういうものが音楽にとっては重要なのだと思うのです。自分が挑戦していないので、負け犬の遠吠えかもしれませんが、演奏会で演奏者のプロフィールが、いかに稚拙で邪魔なものか、aostaさんもご存知ですよね。(笑)
題材を木に限定することなく、広くモーツァルトの音楽全般、あるいはモーツァルトという人そのものについて、お話がしたいということですね。
このご提案だと、天使♪さんを巻き込むのが正解かもしれません。が、お忙しい方なので、無理なお願いはできませんけれどね。彼女のモーツァルト談義は、ご自分でも仰っている通り、3日3晩でも足りないでしょう。そういう片鱗を私は垣間見せて頂きました。
さて、提案を天使♪さんに振ったのではなく、真っ向から受け止めましょう。僕もそれを機会に勉強して、さらにモーツァルトについて、感慨が深いものになれたら幸せですものね。
貴女のような文才はありませんが、宜しくお付き合いさせていただきましょう。もちろん、他の方からの気軽な、ときにはドキッとするようなコメントも歓迎です。
では、新たなブログを今晩にでも立てましょう。そのぐらいはあふれ出る思いに蓋をして、とっておいて頂けますか?(笑)
う~ん!だから怖いところがあるのです。
よくご存知の方からすれば、あらら?ということもなくはないでしょう。
「ちょっと、違いませんか?」などというコメントが入ったりしたらどうしましょう!
書物でも、インターネットであっても、一度「調べる」とそこから抜け出せなくなりそうな気がするのです。正確かもしれないけれど「借り物」の感想になってしまうのではないかという気がして個人的な「身体記憶」に頼ってしまいました。
幼児期から思春期にかけていつも私の生活の中にあったカトリック教会の記憶です。
理屈ではないので、上手く表現することが難しいのですが。屋あらかな光とろうそくの燃え尽きる時の匂いや、香の香り。鐘。歌うようなラテン語の典礼文。
グレゴリアン・チャントの低く、ときに物憂げな旋律。これら全ては私の一つの原風景かもしれません。
抜け出ることができないから、ネット・サーフィンという言葉があるくらいです。(意味がちょっと違いますね)
しかし、インターネットの情報量とは計り知れないものがあります。最近はブログも大流行で、検索結果にブログが出ることも結構多くなりました。
まったく関係ない話ですが、GoogleでPapalinで検索したら、IL DIVO Papalinが、第一位の検索結果として出ました。自分でもびっくりです。「むとう」の検索だと、8位。信じられません。
ほほう、平安時代まで遡ったお話になるのですね。たしかフランシスコ・ザビエルもまだ来日してないころ、成田空港もない時代ですね。
すみません、頭が変なんで...。でもよく覚えていますね。僕は香りで風景を思い出すことがあります。
それでもって、ブログもブログへのコメントも、学会に発表するのではなくて、誰でも見られる黒板に書くだけのことですから、間違いがあっても気にしない、気にしない。平安高校時代に、先生に当てられて、前に出て黒板で数学の問題を解いたでしょう? 完璧でしたか?
美しい原風景でいいですね。Papalinの原風景は、スカー...やめときます。(笑)
場合によっては、ローマン・カラーもなしということも珍しくありません。
でも、私が教会に通っていたころ、神父さまはみなカソック、もしくはスータンと呼ばれる、くるぶし丈の黒い長衣を着ていらっしゃいました。
いわばワンピースのようなものです。
フランス系カナダ人でいらした神父さまは、とても長身で、まだ小さかった私たちから見るととてつもなく背が高く感じられたものでした。
神父さまの足元にまつわりついては、そのスカートの陰に隠れたり腰のロザリオを引っ張ったりして遊んだことをおもいだしました。
私もやっぱり、あのスカートの中には何があるのかとても不思議でしたよ(笑)
え? モーツァルトとaostaさんの二人だけ? 仲を取り持つPapalinは登場しないの? さみしいなぁ。
原村の高原教会の牧師さんであるフロイラン先生がローマン・カラーのシャツをお召しになっていたのを覚えています。中央の白い四角形がことのほか浮き立って、それを見ただけで、神聖なシャツという感じがしますから不思議なものですね。
スータン、ええ知っています。天使にラブソングを・・・で、ミッションスクールの先生が着てらしたですよね。黒以外に、グレーもあったような。最近、記憶自体がいい加減なので、自信はありませんが。ところで、スータンの下にはパンツ(ズボン)を履いていらっしゃるのですか?
モーツアルト、やっと聴かせていただいています。
美しいです~~♪
それに、この冊子は・・・?@@
くすっと笑えるところが、やっぱりPapalinさんらしいですねぇ・・・(笑)
通して、全部聴かせていただきますね~
ではでは、又後ほど・・・
ぜ、ぜんぶ聴かれるのですか? 折角直った風邪がぶり返してしまうかもしれませんよ。(笑)
とってもへたくそな音楽なんですが、自分の子供はやっぱり可愛いものです。よせばいいのに、皆さんにも公開して後悔しない辺りがPapalinですね。
レイさんのピアノ録音の新作、プレイヤーズ王国でも聴かせてもらっています。精力的で感心です。
今日は残りの曲を、全て聴かせていただきました。
私、レクイエムは全く知らないので、コメントしにくいんですが・・・
でも、Papalinさんの音楽のすばらしさはわかります。
何度聴いても、女性の声がPapalinさんとは、信じられないの・・・
しかも、少しの狂いもないでしょ?
歌がお上手だから、当然なのかもしれませんが・・・
でも、人間業とは思えない。(笑)
音域も、かなりのものでしょ?
マライアキャリーだっけ・・?
4オクターブだって聞いたことがありますが、Papalinさんも、それくらい出るんじゃ・・・?
音楽の神、ミューズに、魂を売ったのです。3万円で。
全部聴いていただけた...それだけで非常に感謝しております。とても人様に聴かせられるようなものではないのですが、私の音楽をご理解頂くには、へぼさ加減も含めて全てお見せするのがいいと思いました。
フォーレのレクイエムを録音した頃が、音域が一番広かったです。その後、所属していた合唱団のボイストレーニングの先生に、テノールとしての頭声の発生をしごかれ、頭声は伸びました。その見返りに、ファルセットを失いました。今はクラシックの歌として使える音域は2オクターブはありません。(悲)
相場はそんなとこでしょう。(笑)
三月一日は「灰の水曜日」。
受難節の第一週が始まりました。
わたしにとっては「マタイ受難曲」の季節でもあります。
バッハの名曲ですね。テノールが歌う福音家の配役がお気に入りです。
ちょっと、合唱で検索して、いろいろ彷徨っているうちに、辿り着きました。
このモツレクすごいですね。
ひとりで全パートなんて、すごいです。伴奏まで・・
とても、考えられないです。
とても楽しめました。
余談ですが、私は9月10日に3回目のモツレク歌う予定です。何回歌ってもいいです。今回は、練習なしの助っ人ですが。
では、また、他の曲も聴きに、お邪魔させていただきます。男声合唱曲も大好きなので。
はじめまして。
全世界で二つとない、モーツァルトのレクイエムでしょう? どうして全部一人で演ったか、おわかりですか? 正解は、私には友達がいないんです。(笑)
ピーターパンはもっと笑えるかもしれませんね。
それにしても、3回も歌えるなんて、羨ましいですね。僕はこう見えても、一回もありません。これ本当の話です。
私も拝聴させていただきました。
間違いなく安らかな気持ちになりますよ。
きっと生で聴いたらいいだろうなあと感じました。
今後のご活躍をお祈りいたします。
今後とも、よろしくお願いします。
こんばんは。
馬子さんのピアノのモツレクを聴かせて戴いたのですが、とても迫力があって、新鮮でした。ほかにも沢山の作品があって、つまみ食いをさせて戴きました。またお邪魔します。ありがとうございます。
m(_ _)m アリガトォ~★