◆IL DIVO◆ カッチーニ 「アヴェ・マリア」

Ave Maria / G.Caccini
URL : http://papalin.yas.mu/W903/M005/
◇公開日: 2007年3月15日
◇連続演奏時間: 4分39秒
◆録音日: 2007年3月 (46歳)
◆上の外国語の曲目名をクリック
して、Papalinの音楽サイトから
お聴き下さいませ。 <(_ _)> (視聴?)
世の中に数あるアヴェ・マリアの中でも、その美しさでは1、2を競う作品。
伴奏は、生リコーダーと忠実なパソコン。選んだ楽器は、パイプオルガン!
・手抜き楽譜作成 ・・・・ 40分
・即興部分作成 ・・・・・・ 5分
・伴奏録音 ・・・・・・・・・・ 5分
・歌録音 ・・・・・・・・・・・・ 5分
・笛録音 ・・・・・・・・・・・・ 1分
【写真】 純米酒、吟醸酒、大吟醸テイストでご機嫌のPapalin (2006年 45歳)
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Excerpt: もう20年近く前の記憶である。 フィレンツェのサン・マルコ修道院で出遭ったフラ・アンジェリコの『受胎告知』。 数ある「受胎告知」の中でも、ダ・ヴィンチの作品と並んで最も知られた作品の一つかもしれない。.. Weblog: 消えがてのうた racked: 2007-03-19 00:19
この記事へのコメント
わたくしネッ友の間ではAve Mariaフェチと呼ばれておりますのよ(笑)
特にこのカッチーニが一番のお気に入りだったのです
スラヴァが最初のブーム火付け役になりましたね
papalinさんが再びワタシのカッチーニ熱を上げました
ワタシもまたいつかこの曲リベンジで歌います!!
お忙しいのにリクエストにお応え頂きありがとうデス
リクエスト これクセになるかもネ・・・(笑)
あはははっ
Ave Maria聴かせてもらいました。
憂いを含んだ美しいメロディーですね。
確かに今風の曲にも聴こえます。
シンプルな曲だけにお腹で支えて歌うの大変なんでしょうね。聴きながらついお腹のあたりに力入ります。
この曲の持つ悲しみはどこからくるのでしょう。そんなことを考えながら聴いていました。
unaさん、ど真ん中に命中です。
IL DIVO Papalinの目的は、聴かれた方の心の灯を灯火から大きな炎に変えることなのです。
音楽って、少なくとも僕にとってはなくてなならないもの、特に歌は、誰もが持っている楽器。その楽器を取り出してくれて、お気に入りの曲を歌って下さったら、こんなに嬉しいことはありません。
それにしても、unaさんだけではないんですよ、封印なさっている曲を僕に歌わせるのが上手な方は・・・。
(^-^ ) ニコッ
PS:リクエストは受け付けておりません。Papalinの趣味と琴線に触れた場合、気が向いたらという条件付です。(笑)
そ、そうでした。
すっかり忘れていました。
カッチーニのアヴェ・マリア、聴いたことは何度もありますが、歌ったことは初めてでした。こういう曲は、リコーダーで聴かせるのも難しいですが、歌って聴かせるのはもっと大変ですね。プロがいかに上手いかわかります。
この曲もそうですが、前作の「見えないこども」、肩の力を抜いたら、一緒にお腹の力も抜けちゃいました。一方、喉に力が入るという、悪い見本のようなものです。
┐(´~`;)┌ かんべんシテネ
パソコンとは思えない雰囲気を出していますね。
カッチーニのこの曲、私も大好きです。
繰り返される「アヴェ・マリア」の一言に込められたカッチーニの聖母マリアへの思慕、敬虔な祈り、恭順を感じます。そして聖母の悲しみの深さに共に涙するこの曲は、その悲しみの淵から信仰の高みへと引き上げる不思議な輝きに満ちているように思います。
Papalinさんのアルト・リコーダーの響きは、せつせつとしたこの想いをいっそう深いものにしていますね。感動!!
この「アヴェ・マリア」が40日の祈りと節制のときである四旬節の今、アップされたこと、とても嬉しいです。
どちらも音楽のつくりはシンプルで、純粋な祈りを感じるところが好きです。なんというか、神様との対話というか、音楽のベクトルが天と自分に向かってるような感じがいいですよね。即興・・・うん、この時代の人もそうやって入れたかもしれませんね。いいですよねえ、ヒョイってリコーダー吹いたり、即興で歌えたりするの。そんでもって伴奏はパイプイオルガン!パソコンもやりますよねえ。いや、もちろん一番ヤルのはPapalinさんです(笑)ほんとに「a」母音、きれいですよねえ。
ところで、キリスト教を信仰されてる方は、どんな時に「Ave Maria!」と祈るのでしょう? 「ファーザー」とか「Jesu Christe」ではなく、「Ave Maria」と。そういう話を小耳にはさんだことがあるんです。aostaさんはじめ、信仰あつい方がいらっしゃると思うので、もしさしつかえなければ教えていただけるとうれしいです。
ここのところ、歌ばかりが続いています。パソコンの伴奏にパイプオルガンを選んだら、僕のようないい加減な耳では本物と区別つかないようないい音がしまして、だったら生のリコーダーをかぶせてみようかと思ったのがきっかけでした。僕としては、リコーダー演奏もちょっと難有りなのですが、一発録音に拘っているので、これもよしとしました。
Ave Mariaしか歌詞のない曲、珍しいです。
> 祈りと節制のときである四旬節の今・・・
あれ? aostaさんは連日美味しいものを食べ歩いているとのこと、風の噂で耳にしましたが・・・。
(o^<^)o クスッ
僕の歌がそうなのかどうかは別にして、人間が祈る姿って、本当に美しい。そこには邪念がありません。あったらそれは祈りではありません。
西洋の音楽と信仰は切っても切れません。讃美するってことが音楽をどれだけ豊かにしたか、それは特定の信仰がなくても、否定できないことだと感じています。
Ave Maria! については、詳しいことはaostaさんに伺うとして、僕が訪れている教会はルーテル派に近いプロテスタント(信仰の源泉は神と聖書であるという考え方)なので、神ではないマリアを対象に祈ることはありませんし、マリア像を飾ることもありません。しかし、イエスの母として、マリアは崇められています。カトリックでは聖母マリアとして、イエスへの執り成し的な意味合いから聖母マリアを通して主に語りかけるようです。原罪ということに対する考え方が、両者では違っていることからくるようですね。aostaさん、僕に誤解があれば訂正も含めて、お後を宜しくです。
というより、西洋音楽、特に合唱をやってる以上、そろそろ本腰入れてキリスト教について勉強すべきかな、と思ったりもしてるんですが。なにしろ罪深い人間なので、こわくて近寄れなかったり(-。-;)
お返事が遅くなってしまいましたので、このコメントに気がついていただけるか心配なのですが、”Ave Mariaと唱えるのはどんな時?”ということについて私なりに考えてみました。
カトリック、プロテスタントそれぞれの「マリア観」についてはPpalinさんのご説明にあるとおりです。
では、どんなときに・・・これはなんとも応えにくい難しい質問。
プロテスタントのクリスチャンが「マリア様!」と呼びかけて祈ることはまずありえないことは御了解いただけたと思います。
一方カトリックでは、マリア様、”Ave Maria”と呼びかけることはもしかしたら「主よ」と呼ぶことより多いかもしれません。
神様=父(男性)なのです。
「主」といったとき、私達が思い浮かべるのは父親としての神にほかなりません。
でも振り返ってみれば、生活の中で父親に何か許してほしい時や、大切な頼みごとをしたいとき、「お母さんから言って欲しい」と思うことは珍しくありませんよね。頼みにくいこと、何か大きな失敗をしてしまって直接父親に言うのは気がひけるというのは良くあるパターンだと思います。
父性的宗教であるキリスト教の中でこの「母親」の役割をしてくださるのが聖母マリアです。
”Ave Maria”と聖母マリアの名を祈りの中に呼ぶとき、「永遠の母性」の深い慈しみを通して許されたいという、人間の根源的な憧れがあるのかもしれませんね。
生身の人間であるマリアが、自分の意志とは無関係のところで「救い主」キリストの母として選ばれる、という不条理を受け入れた結果が、極刑に処せられた息子の死を受容するという耐え難い苦しみでした。
この母親としての極限の苦しみを人間として味わったマリアの悲しみの深さは、とりもなおさず人間への深い愛と理解、許しの深さでもあると私は思います。
神でありながら人間の罪のために死なれたキリストへの信仰と、母親として極限の苦しみを知っているマリアへの想い。カトリックの信仰において、このふたつが完全な「愛の形」を現すものなのかもしれません。
ご質問の答えになっているか甚だ不安です。
答え、というより私の個人的なマリア観でしかないのかもしれません。
カトリックの環境の中で育ち、現在はルーテル系プロテスタントの教会に通っている私にとって、聖母マリアに祈る事はありませんが、やはり特別な存在なのかもしれませんね。
何度も読み返し、感じ入っています。aostaさんの言葉をどれだけ昇華できるかわかりませんが、少なくともこれから「Maria」と歌う時、aostaさんの言葉が拠り所になるであろうことは間違いありません。大切なお話をしてくださって、ほんとうにありがとうございました。
Papalinさん、個人的な質問にこの場を使ってしまってすみません。でも、おかげさまで、貴重なお話を聞かせていただくことができました。ありがとうございます。
私、幼稚園はミッション系だったんです。週に1~2回はミサもあったんですが、ほとんど覚えていません。ただ、礼拝堂でのお祈りの時間のおごそかな雰囲気、清らかな空気だけは子供心にもひかれるものがあったのでしょう、記憶に残っています。礼拝堂にはマリア像もありました。ということは、カトリックだったんですね。いまごろ・・・(-_-;ウーン
ねこまっくさん。私の経験と考えを書きましょう。
私も同じ悩み・・・というか、課題にぶつかったのです。だからこんな道を歩んできました。
僕は、クラシック音楽少年でした。そして合唱を始めた31歳の頃には、いわゆる宗教曲の美しさにはまり、特に無伴奏の宗教曲が大好きになりました。入った合唱団がそういう曲を全く得意としない合唱団だったことは、エッセイ『小さな村のクリスマス』の初期の号(右のURL)の通りです。
何とか宗教曲を合唱団で取り上げてもらって、更に指導めいたことをするようになったり、一人多重録音をかをし始めますと、当然のことながら、その曲の背景だとか、裏側にある意味だとか、知りたくなります。でも当時は宗教に首を突っ込む勇気はありませんでした。だから色んな本を読みました。
つづく・・・
1994年にモーツァルトの戴冠ミサ曲を歌ったときなど、神学者ハンス・キュングの書いた『モーツァルト/超越性の痕跡』なんていうかなり難解な本も読みましたが、難しくてわかりませんでした。キリスト教のことを知らな過ぎたので、理解できなかったというのが正しいかもしれません。
そんな泣かず飛ばずの時が10年ほど続きましたが、あるとき、aostaさんと知り合いました。彼女は私の音楽を理解して下さり、とくに私の宗教曲の多重録音に興味を示して下さいました。そして彼女がクリスチャンだと知るところとなりました。
彼女は全く私を勧誘はしませんでしたが、私がキリスト教会、ミサそのものに興味を持っていることを知り、ご自分が足を運ばれている教会を教えて下さいました。そこへ私も行ってみたい、ミサを見てみたいという希望は、私が彼女に伝えました。
つづく・・・
ところが、彼女は迷ったのです。
当時はキリスト教について殆ど知らない私でしたので、私が臨席したいと望んだミサはカトリック教会のものであり、aostaさんの通うプロテスタントの教会では、いわゆるミサはなく、主日(日曜日)におこなわれるのは礼拝と呼び、そのスタイルもカトリックのそれとは随分と異なっていたのですね。
そんな事情をお話戴きながら、僕は"音楽に満ち溢れている" 八ヶ岳中央高原教会に興味を持ちました。カトリックのミサはいつか見る機会もあるだろうし、それはまた後日aostaさんに計画戴くお願いをして、まずはこの教会に行ってみたいと、強い意志を伝えました。そしてそれが実現しました。クリスマスの日に初めて教会を訪れ、礼拝を見させていただき、祝会も見させて戴きました。そして、大晦日に"ミッドナイト・ミサ"という私には非常に興味のある催しがあると伺い、楽しみに出かけました。
つづく・・・
続いて、A先生との出逢い・・・こちらもaostaさんの導きによって実現したものです。私にとっては、非常に興味深いものであるのと同時に、自分が何も知らないのに、このような方たちとお会いしてキリスト教についてお話しすることが恥ずかしくも思いました。私はキリスト教と、キリスト教徒を全く誤解していたからなのです。そのお話はまた致しましょう。
そうですね、僕は求道者ではなく、音楽という面から教会に向かった人です。そういう道もあってもいいのではないかと僕はいま思っています。
このあとのお話もありますが、今朝は一旦この辺りで中座させて戴きましょう。また。
つづく・・・
aostaさん、いい出だしです。
ぐっと惹きつけられます。
さすが、言葉の賜をお持ちの方・・・。
僕の能書きも、大間違いはなかったということで、良かったです。胸を張って言いますが、浅学なもので。(笑)
なるほど、なるほど。
男の子は大抵マザコンです。
なのに、大人になって、父親になると、恐い存在になるんですね。もっとも最近は、恐いお父さん、恐い先生というのは天然記念物もののようですが。
お母さんに執り成してもらう・・・なるほど。
これは、aostaさんの説?
ものすごく説得力があります。
え、そうなの?
新約聖書を読む限りでは、マリアは人間だと思うのですが、それはカトリックの解釈なのですか?
なるほど、なるほど。
イエスが強調しているのが"愛"。律法、裁きの旧約聖書と比べ、新約聖書では、愛、慈しみ、許し、そういったものを強く感じます。そしてその教えの一端を担っているのが聖母マリアですか。なるほどね。
いや、そうではなく、素晴しかったです。
ともすれば、プロテスタントの世界では、神聖化したマリアはまるで罪人であるがごとくの扱いを受けることがあります。大事なことは、マリアはイエスの母親であるということです。どんな母であれ、どんあ事情があれ、母親を敬わない人間がどこにいましょうか。生を授けてくれたこと一つをとっても、それは尊敬以外の何ものでもありません。自分の命をかけて生んでくれたのです。
ねこまっくさん、幼稚園での幼児期の過ごし方、それだけ残っていれば十分かも知れないですね。子供も、何を喋っているのかはわからなくても、雰囲気というのは察知します。幼稚園のよいところはそこですね。学習する場ですよね。
僕は保育園でした。幼稚園、行きたかったな~。制服が格好よかったし~。
そうそう、僕もお返事で体験談を書き始めたのですが、自分の整理にもなるので、ちゃんとブログを立てようかと思っているところです。大丈夫ですよ。僕は宗教の勧誘は大嫌いですからしません。(^-^ ) ニコッ
幼稚園のこと、だんだん思い出してきました。「聖母幼稚園」です。まんまですね。大きな講堂と小さな礼拝堂がありました。講堂では多分一般のミサとかやってたのでしょうね。
シルバー神父の英語のレッスンもありました。「あっぼぅ」「てにすぼーぅ」しか記憶にありません。初期教育なんてウソっぱちです。
おはようございます。
つたない説明、読んでくださいましたこと感謝いたします。私としてはまだまだ不十分なのですが、いかんせんご質問が大きすぎて(笑)
マリアの「原罪」についてはたまたま以前のブログでかいたことがありました。このPapalinさんのブログにTBさせていただきましたので(受胎告知)お時間のあるときにでもお読みくだされば幸いです。(笑)
そうでした。
初めて教会にご一緒してからまだ2年もたっていなかったのですね。
私にはキリスト教も教会も、すでに空気のように当たり前になっていましたので、Papalinさんの疑問や質問のひとつ一つが、意表をつくものでした。
また改めて私にとっての「キリスト教」や信仰を考え直すきっかけを与えてくださいました。
そうした意味で、この一年半という時間は、私にとってもとても深い意味を持っています。
私の通っていたのも「聖母幼稚園」でした(笑)。
カトリックの幼稚園には良くある名前ですよね。
朝、登園して真っ先にすることは園庭にあったマリア像に手を合わせることでした。
プロテスタントではこのように何かの「形」「に向かって祈ることを否定しています。
けれども、私自身の経験を考え直してみても、幼い頃のこの祈りは今よりずっと無心だったと思います。
マリアさまに呼びかけながらの祈りであったかも知れませんが、マリアさまの向こうには、確かに「神様」がいらっしゃいました。
そのことに、何の疑いも持たずに祈ることが出来た幸せなときでもありました。
私達の幼稚園はフランス系の修道院の経営でしたので神父さま初めシスターたちも皆フランス人かフレンチ・カナディアンのかたたちでした。
やっぱりフランス語を教えてくださいました。
覚えているのは、フランス語とはとても思えない、怪しげな「フレール・ジャック」の歌だけです(笑)
いやいや、ねこまっくさん。
あなたの幼少期に、あなたの人格を形成するのに、大いに影響があったはずです。でも、たまには例外もいますからね。(?)
ねこまっくさんと同世代なんて言うつもりは毛頭ありませんが、そういえば、小学校の体育館のことを"講堂"と仰る年配の先生がいたことを思い出しました。
聖母幼稚園、いいですね。
娘がやはり聖母幼稚園に通いました。
父の無念を晴らしてくれました。
「あっぼぅ」 「てにすぼーぅ」って何?
そうでしたね。
でもこうした核心に対する疑問にきちんと答えられるaostaさんは素晴しいと思います。
失礼があったらお許し下さい。
もともと矛盾だらけの宗教です。そしてそれを矛盾と知りながらも、英知ある人びとが真剣になって、教義を説く。そこが面白いといっては何ですが、パラドックスであり、そして人間が人間たる所以のような気さえもします。科学者にクリスチャンが多い・・・創世記はウソでしょうけれど、信じたいという思いはわかります。ロマンに満ち溢れています。
一方で、創世記を信じようと、進化やそれについての教育さえをも否定してしまうのは行き過ぎと思います。
てにすぼーぅ→tennisball
なぜ、テニスボールだったのだろう?
ただのボールでいいのに。
aostaさんは、いつまでたっても、私の師匠ですので、ご覚悟を。(笑)
一つ前のお返事もそうですが、こうして歯に衣着せずに言えるというのは、aostaさんの大きさに甘えているからに違いありません。了見の狭い人だったら、「お前は神を侮辱しているのか?」という感情で、その先には進めませんから。(と、釘を打っておく・・・その必要も相手がaostaさんでは無用ですね。)
感謝!
合掌! あ、これは違う宗教だっけ?
aostaさん、英語のような気もしますが、教えて教えて! 怪しげな歌、IL DIVOで歌ってアップしましょうよ。JASRACだけじゃなくて、当局からもお呼び出しが来そうな歌ですか?
そんな歌、聖母幼稚園で教えるはずないか。
*o_ _)oバタッ
あはは。
ごめんね、こんなフォローまでさせてしまって。かったるかったり、うざかったりしたら言ってね。今度からネットできちんと調べるから・・・・・って、載ってないか。(笑)
あのさ、僕さ、江戸や明治の頃の日本人の耳って、尊敬してるんだ。
メリケン (American)
ヲロシア (Russia)
ミシン (Machine)
などなど。私たちはカタカナで聴いてしまうけど、音を聴いて、日本語のカタカナで表記しようとしたら、この方がずっと近いんだよね。尊敬です。
グル (Girl)
すんげ~。
ねこまっくさん、
パソコンの画面に表示される文字なんですが、
僕は、゙ と ゚ の区別がつきません。
このように単独だとまだわかりやすいけど、
ボとポの違いってわかりますぅ?
前者がboで、後者がpoです。
あっぼーぅ (abbou) って何だ~?
とずっと考えていたわけ。
また、次がてにすぼーぅだったので、
ぼーぅは疑いがなくってさ。
頭固くなっちまったーぃ。(笑)
覚えている歌詞はこんなんなんです。
♪フレール・ジャック
フレール・ジャック
ソルネイユ~
ソルネイユ~
ソネレマチ~ヌ
ソネレマチ~ヌ
ディン・ゴン・ガーン
ディン・ゴン・ガーン!
あっ!笑ってらっしゃるでしょう!
なんだ、この歌は?って・・・
まあいいです。
ほんとに「なんだこの歌は・・・」ですから(笑)
フレールジャック、お寝坊の修道士さんと教わりました。ミサの鐘が鳴り始めたよ、いつまで寝てるの修道士のジャックさん?というような意味。
メロディを聴けば、きっとご存知の曲です。
フランスの古い童謡かなんかだと思います。
ドレミド ドレミド
ミファソ~ ミファソ~
ソラソファミ~ド~ ソラソファミ~ド~
ドソド~ ドソド~
こんなんなんと違う?
こんど、歌ってくださるの?
やっぱりそうか。
同じ歌詞が2回続いて、それが4セット。
知ってる曲は、これくらいしかありません。
こら、自分で歌えるでしょう?!
PS:可愛い歌詞で、ホッとしました。
そんな歌詞なのですね。
今度歌ってくださいね、aostaさん。
繰り返しだけの歌詞と、耳に馴染んだメロディのおかげで覚えていました。
思いがけないときに、自分でも気づかないで口ずさんでいるときがあります(笑)。
「三つ子の魂百まで」とは良く言ったものですね。
恐ろしや「フレール・ジャック」!
ねこまっくさん、賛成!
白寿はまだだと思っておりましたが...。
60で折り返させていただきましたのでカウンターは0に戻りました。
あしからず・・・
60(通常)+60(折り返し)+3(三つ子)
すごい年齢ですね。森の魔女・・・。