◆IL DIVO◆ Heilig / メンデルスゾーン

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画像
"Heilig, Heilig Ist Gott, Der Herr Zebaoth" Drei geisliche chore (1846) / Mendelssohn
URL : http://papalin.yas.mu/W304/

  ◇公開日: 2009年9月21日
  ◇演奏時間: 1分45秒
  ◆録音日: 2009年9月 (48歳)
   上のアルファベットの曲目名を
    クリックして、Papalinの音楽サイト
    からお聴き下さい。(視聴?・試聴?)



ハイリッヒ:「聖なるかな」
同じ題名のシューベルトの作品を、遥か昔歌ったことがありました。
シューベルトの方がより内省的だったかと思います。
メンデルスゾーンは明るくていいですね。(^-^ )

2つの混声合唱のために書かれています。
Papalinの一人多重唱だと分かり難いのですが --- (それでもちょっと工夫して、左右にソプラノをパンして、真ん中にバスを配置してみました) --- 曲の出だしは・・・

   合唱1のソプラノ ⇒ 合唱2のソプラノ ⇒ 合唱1のアルト ⇒ 合唱2のアルト
   合唱1のテナー  ⇒ 合唱2のテナー  ⇒ 合唱1のバス  ⇒ 合唱2のバス


というように美しくシンメトリーに音を増していきます。
8小節かけて全員が出揃い、9小節目のHeiligでフォルテとなるわけです。
とても考えられているというか、
きっと思いつきでも、できちゃうんだろうなぁ・・・。

ちなみに最後の歌詞は、Hoehですが、Herrと歌ってしまいました。
途中で気づいたのですが、全員で間違えればいいや・・・などと。(^^ゞ


大勢のPapalinたちによる多重録音にて、お聴き下さい。 <(_ _)>


パート

  ~ 合唱1 ~

      ソプラノ     Papalin1号    (一番で歌っています)
      アルト      Papalin3号       ↑
      テナー      Papalin5号       |
      バス       Papalin7号       |

  ~ 合唱2 ~

      バス       Papalin8号       |
      テナー      Papalin6号       |
      アルト      Papalin4号       ↓
      ソプラノ     Papalin2号    (一番で歌っています)




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この記事へのコメント

2009年10月04日 20:53
シューベルトの「聖なるかな」久しぶりに聴いてみました。懐かしいという想いだけでなく、歌い方も、声の質もあのころに比べずいぶん変わってきていることを改めて感じました。
シューベルトをうたわれたころに比べ最近の歌は洗練されてきた、といか、音楽の肌理(きめ)が細かくなてきているように思います。以前より丁寧に歌おうという気持ちがあってそうなった、というより、意識する以前に歌が変わってきたような自然な感じですね。
私が言うのも僭越ですが、いい意味で「歌うことに慣れてきた」とでも言ったらいいのかしら。

3年前の声には、ハガネのしなやかさを感じます。いいお声です♪
Papalin
2009年10月04日 21:30
◆◆ ハガネのしなやかさを感じます

aosta、ありがとうございます。
鋼というのは、しなやかでもあり、強い金属でもあります。昔の声は今とは違って、強い金属に近い声です。SchubertのHeiligの声が剛とすれば、今のMendelssohnのHeiligの声は柔ですね。どちらも好きです・・・という、ナルシストです。

人生もずっとやってますと、酸いも甘いもわかるようになります。それが音楽に表われなかったら、無駄な人生でしょう。

ゞ(_。_)ゞ パタリッ
2009年10月04日 22:14
さて「ハイヒッヒ/聖なるかな」でしたね。

>曲の出だしは美しくシンメトリーに音を増していきます

2次元的シンメトリーが美しさとともに安定感と一種の充足をもたらすものであるのに対して、「音楽的なシンメトリー」は金色の朝の光の中からひと筋またひと筋、淡い蒸気のような輝きが次々空の高みへと昇ってゆく「上昇への志向性」を感じさせる美しさです。
充足ではなく、憧れ。
それも地上的なものではなく、天上的、聖なるものへの希求は音楽でなければ表現できない感覚なのかも知れません。
このような音楽が「思いつき」だけで生まれるものなのでしょうか。私には緻密に準備された結果のように思えます。それをさらりと「思いつき」のように演出して見せるのも作曲家の力量のうちなのかもしれません。清潔、という言葉には、まま趣きに欠ける印象を伴うことが多いように思いますが、この演奏は清潔でありながら豊かなニュアンスを感じます。
声の質から来る印象も大きいかもしれませんね。
しっとりとつややかで、誤解を恐れずに言わせて頂くならば、素敵に官能的な声だと思います。
Papalin
2009年10月04日 22:27
◆◆ 豊かなニュアンスを感じます。

aosta、ありがとう。
ともすれば、ルネサンスの平坦な曲や、キリスト教の宗教曲って、官能的な世界とは対極的にあるものと思われるかもしれませんが、実はもっともセクシーだと思います。人間が人間の異性に、メロメロになって語りかけるなんてのは、イタリア人なら得意でしょうけれど、そのイタリア人でさえ、恍惚の表情を浮かべては口説かないでしょう。

ところが、音楽(特にクラシック音楽)というのは、アカデミックという鎧を纏っているだけで、鎧の下は、スッポンポンなんですよ。素っ裸で大通りを歩いているのに、誰も通報もしなければ、当局も逮捕しないわけです。

宗教曲って、楽譜の中に、神にメロメロになっている作曲家が見えませんか?

Papalinは、可笑しいですかね。
(*´ー`) フッ

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