◆IL DIVO◆ モーツァルト / レクイエム
≪生演奏を公開しています≫
W.A.Mozart: "Requiem" d-minor K.626
URL : http://papalin.yas.mu/W502/#M002
◇公開日: 2010年07月10日
◇連続演奏時間: 42分38秒
◆録音日: 2010年7月 (49歳)
上のアルファベットの曲目名を
クリックして、Papalinの音楽サイト
からお聴き下さい。(視聴?・試聴?)
大曲を終えて、何を書きましょう。
正直、体調が優れずと言うか悪く、
演奏するだけでも充分に疲れます。
PCに取り込んで、公開準備をして、
ブログまでは本当に長い道です。
モーツァルトのレクイエムを再録音する。これは前からの決めていたことです。
前回のは1992年の録音。公開したのは、IL DIVO Papalin のサイトが誕生し、ブログを始めた2006年でした。まだファルセットで歌えた頃でしたが、4トラックのオープンリールで多重録音すること自体が楽しい頃でした。
前回公開のブログをお読み戴けますとお分かりかと思いますが、モーツァルトのレクイエムは、僕にとっては鬼門なのです。生きるとか死ぬとか、病だとか、そういうものと関係しているのです。今回は僕自身が病に倒れ、正直に申しますと、人生が大きく変わるかも知れないとの予感がありました。先を急いだ? まんざら嘘ではありません。歌う声という意味でも40歳代に拘っていますし。でもそれは50歳になったら突然衰退するわけでもなく、ただ自分が拘っているだけなのですけれど。
元を辿れば、モーツァルト自身が死への病床で作曲した(正確には完全な形では作曲されず、スケッチを元に、あるいは他の手掛かりを元に、あるいは弟子たち自身の技量でもって完成させたことは、ご存知の通りです)、モーツァルト自身の唯一のレクイエムです。そのことと何も関係がないとは思いたくないです。冗談では「僕の音楽葬では、フォーレとモーツァルトのレクイエムをかけっぱなしにしてくれ」なんて言ってましたが、両曲とも初回作品はお聴かせするのも憚れるような出来でしたので、これで一応準備も整ったことになります。あと一曲、ヴェルディを演奏すれば、3部作が完成するわけです。
フォーレにしても、モーツァルトにしても、コントラバスとグレートバスの2本が手に入ったのが、再録音する大きなキッカケとなったのは言うまでもありません。それともう一つ挙げるとするならば、あえて女性の音高にこだわらなくなったことです。確かに作曲家が耳にした音とは違います。ソプラノ・パートより、テナー・パートが高くなってしまったり、最低音をバスではなくてアルトが受け持つようになってしまったりと、いろいろ問題箇所はありますが、僕自身がそういうことに拘らなくなった、下賎な言葉を使うなら越えちゃったということです。
IL DIVO Papalinで様々な曲を演奏していますが --- もちろんそれは吹きたい、歌いたい、という曲なのですが --- それらは同時に僕自身の色々な実験でもあります。女性の音高に拘る必要はないとの確信をもったのは、ベートーヴェンの第九でした。
モーツァルトから話が離れてきてしまいましたね。
このレクイエムを構成する13の曲すべてに、演奏者としても思いがあるわけですが、少しだけ書き留めておきます。
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モーツァルト自身がオーケストレーションまで含めて完成させたのがこの曲です。ですのでモーツァルトが頭に描いていた音楽が、完全な形で残されています。モーツァルトの音楽の美しさの一つに、2度の使い方、係留音の使い方があると思います。2度の美しさは、Recordareで体験する(聴く)ことができますが、このIntroitusでは、5度で進行するポリフォニーの中に、係留音の美しさを実感します。
歌のパートでは、ポリフォニックに進行していく音楽が、突然縦の線が揃うホモフォニックなものに変わるところに、意図を感じずにはおられません。音楽は前に進むもので、縦の線は二の次だ --- つまり、ホモフォニー的な要素よりもポリフォニーの方が遥かに大切だ --- と言った偉大な指揮者がいましたが、僕は比べることがナンセンスであり、両者があって調和してこそ、バロック以降の音楽だと思っています。ですから、前に前に推進する部分のドライブ感と、縦の線がピタッと揃う音の調和、ハーモニー、声の表情・・・、そうしたものを意図し、まがいなりにも表現できたときには、密かな充実感を覚えるのです。
Kyrie eleisonの最後の音については、同じメロディで構成される終曲:Communioで書きます。
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演奏時間がトータルで前作よりも10分も短くなっていることにお気づきでしょう。1992年の私は、まだ重厚長大なレクイエムが好きだったのですね。しかしそれ以降、様々な古楽演奏に触れてきたときに思ったのです。古楽(主としてバロック音楽)がキビキビとした演奏であったのは、僕もそう思っています。バロック・オペラのコロラトゥーラを、ちんたら歌った筈がないだろうと思います。リヒターのバッハは精神性の深さには合意しますが、当時の演奏に近いものかどうかは疑問の残るところです。
さて、バロックに続く古典派の音楽が、はたして突然重厚長大になるのだろうか?
それはあり得ないことだと考えます。重厚長大になるのはブルックナー、ブラームス、そういう時代になってからでしょう。としますと、このモーツァルトのレクイエムとて例外ではありません。いや、むしろ淡々と躍動感溢れるテンポで演奏されたと思います。
前曲のKyrie eleisonのテンポも、僕には技量オーバーのテンポで歌いましたが、この Dies irae はどう考えましょうか。怒りの日を表すには、大音量すなわち大勢の合唱によって歌われることが好ましいでしょう。ちなみに17日の演奏会では202人の合唱で歌います。一方 IL DIVO Papalin は、基本的にユニゾンを嫌っています。どんな曲であっても、各パート1人が IL DIVO Papalin のコンセプトです。としますと、怒りの日を表す手段は、音量ではなく躍動感となります。するとテンポは重要な要素となるわけです。更に、テンポの面だけでなくて、”人間的な”もの、つまり美しいだけではない、そんな心を持つ人間を表現して歌いたいと思うのです。最後の審判、それはやっぱり恐ろしいものでしょう。
● Tuba mirum (http://papalin.yas.mu/W502/M002/#M002V03)
ソロは・・・何度歌ってもいかんです。
演奏がということではなく、注目はソリスト四人による四重唱のところでしょう。合唱ではなく、声の四重唱として作られた最後の部分、モーツァルトに酔ってしまうのは、こういうところなのです。
● Rex tremendae (http://papalin.yas.mu/W502/M002/#M002V04)
付点を倍の長さにして歌う習慣は、モーツァルトの時代ではどうだったのでしょう。でも、こうして --- 楽譜通りではなく --- 歌ったほうがしっくり来ます。楽譜通りだと、音楽がしまらないのですね。きっとこうだったと思います。楽譜表記上の慣例だったのかもしれませんね。いい加減なことを書いています。
● Recordare (http://papalin.yas.mu/W502/M002/#M002V05)
2度の美しさの曲です。混声四重唱で歌うときには、バスとアルト、テナーとソプラノという組合せになりますので、9度になりますが、オーケストラ伴奏は2度です。
歌うテンポを決めました。伴奏を先に録音しました。失敗だったかな、ちょっと浮き足立ったような演奏になってしまった。そんな心配をよそに、四重唱を重ねてみましたら、決して速過ぎないじゃないか・・・そう思ったのは私だけでしょうか。
● Confutatis (http://papalin.yas.mu/W502/M002/#M002V06)
ソプラノとアルトに登場する、voca me・・・。
僕の演奏だと、冒頭から1分くらいのところに登場する、2度目の voca me・・・のフレーズ。希う人間の心、嘆願するかのような歌い方をしてみました。世の中に溢れているCDでは、淡々と歌うところだと思います。今回の僕の演奏のコンセプトは、弱い心を持っている人間を曝け出すことです。神にすがるような場面で、内省的に歌う必要はない。気持ちをストレートに表現してみようと思いました。気に入っている箇所の一つです。
● Lacrimosa (http://papalin.yas.mu/W502/M002/#M002V07)
単独で歌うか、全曲の中での位置づけとして歌うかの違いは、ここにも出ました。
入祭唱からずっと速めのテンポで歌ってきて、続誦
モーツァルト自身は、この曲 --- といいますか --- 前半の締めくくりを長大なアーメン・フーガで終わりたかったようです。そしてそのアーメン・フーガのスケッチと思われるものが1961年だったかな、発見されています。そのモチーフを使ってこの30年位の間に、モンダーさんを初め、何人かの音楽家がアーメン・フーガを作曲しているようです。僕もホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団・合唱団のCDで聴いたことがあります。これはこれですごいと感じています。もし楽譜があったら、僕も歌ってみたいと思いました。聴きなれたジュスマイヤー版には登場しない音楽ですが・・・。
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中間部(Quam olim Abrahae・・・)の大きなデュナーミクを伴うドライブ感は、17日の演奏会で指揮される柳澤先生に教わりました。平面的になりがちな箇所に、一つのドラマが生まれました。
● Hostias et preces tibi (http://papalin.yas.mu/W502/M002/#M002V09)
後半の Quam olim Abrahae・・・ は、一つ前に歌ったものをそのまま使いました。体調とは関係なく、計画的な流用です。
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Sanctusは、僕の中では Gloria に近いもので、声の質も変えて歌ったつもりです。レクイエム中、唯一のシャープ調(ニ長調)です。本当はト長調! と行きたいところですが、前後関係から仕方ありませんね。
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体調が最も優れなかったときの作品なので、本来の Benedictus の明るさが表現できていません。ひょっとしたら前作(1992年録音)の方がいいかもしれません。
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どうしてこんなに暗く重たい曲なのでしょうか。
本来 --- 中世以前になりますが --- Agnus Dei は、ミサの中で聖体変化したパンを切り分ける際に歌われたものです。ここからは僕の考えですので、異論があることを承知で書きますが、「子羊」の意味は二つあると思います。一つは、神とは異なり、弱い心をもつ人間そのものが子羊のような存在であること、もうひとつは旧約聖書の中に登場したイサクの話にあるような、いけにえとしての子羊。イエスさんは後者の意味で、神の子羊だったのでしょうね。さて、Agnus Deiを直訳すると「神の子羊」、後者の意味になり、イエスさんの聖体を意味するパンを拝領することによって身体の中にイエスさんを取り込み、信仰を強めるということなのでしょうが、パンを与えるという能動的な行為の意味から、パンを授かるという受動的な意味が強まってきたのが中世の頃だったようです。ですから、音楽にも、より、すがる意味が強まってきたと考えられます。
同じモーツァルトのミサ曲でも、戴冠ミサ曲の Agnus Dei では、”与える”こと、”神を受け入れる”ことが前面に出た曲想になっていると感じますし、一方このレクイエムの中での Agnus Dei では、”求める”こと、”請い願う”ことが強調された音楽になっているように思います。絶望的な和音が登場するのですが、その意味、すなわちモーツァルトの真意は理解に苦しむところです。
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レクイエム冒頭の Introitus と全く同じ(と言って過言でない)メロディ・構成の曲なのですが、Inrroitusでは Te decet hymnus Deus・・・と歌われたところが、最終曲では Lux aeterna と始まるだけで、その歌詞の通り、光が差し込んでくるような気がします。肉体的にちょっと弱っていた私自身も、不要な力が抜けて、功を奏したともいえます。楽天的に考えるタイプです。伴奏は Introitus のものをそのまま使いました。
最終音のお話です。
このレクイエムを完成させた重要な人物であるジュスマイヤーが、最終曲に Introitus & Kyrie の曲をそのまま持ってきたのは、モーツァルトの指示だったか、そうではなかったのかは定かではありません。が、 Introitus & Kyrie をモーツァルト自身が完成したために、この最終音は、モーツァルトの意思でこうしたのですね。こうしたとは、どうしたのかと言いますと、この和音は、DとAの二つの音しかないのです。五度のハーモニーです。
なぜ間にFを入れて、ニ短調の和音にしなかったのか。
これは、モーツァルトが、僕らのような聴く人、歌う人、演奏する人に与えたプレゼントだと思っています。僕は、この和音は三度の音はありませんが、ずっとニ短調の和音に聴こえていました。今回の演奏でもそうでした。しかし、この2つの音からF#を感じる人もいるかもしれません。弦バスがDを弾いていますから、音響的には倍音の中にF#は含まれていることになります。逆にFは聴こえない筈です。
恐るべしモーツァルト。
Papalinが”とりつかれちゃう”のも無理ないでしょう?
楽譜は17日に使う、Breitkopf版を使いました。
この楽譜には、Gunter Raphael、Christian Rudolf Riedeの2人の手による伴奏譜が載っています。感覚的に取捨選択しました。またピアノ譜にない重要な音(特にメロディ)を加えたところもあります。伴奏は、極力アルト・リコーダーを使わないようにしました。Cis、Dは元より、Esまではテナーで演奏しました。理由ですか? アルト・リコーダーの音は、テナーのそれと比べて軽く感じることがあるからです。曲にもよります。ソナタはアルトです。
大勢のPapalinたちによる多重録音にて、お聴き下さい。 <(_ _)>
使用楽器
ソロ・合唱 Papalinたち
伴奏 アルト メック 黒檀製
テナー 全音 桜製
バス メック 楓製
グレートバス キュング 楓製
コントラバス キュング 楓製
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この記事へのコメント
からだ中にズシーンと響きました。
ひとつだけ、
最初の全パート版を聴き終わって、その緊張が終わらないうちに次のカラオケバージョンが自動的に再生されてしまいます。(私だけ?)
全パート版を最後にして、もっと余韻を楽しむ、味わう、感じる(うまく表現出来ません)時間が欲しかったです。
モーツァルトとは、この事だったのですね。失礼しました。
こういう初歩的な質問は私でも答えられます。聴きたい曲のタイトルかM002という番号の部分をポチッとクリックすれば、聴きたい曲だけ表示されて、表示された全曲が終わると演奏も終わります。ただhttp://papalin.yas.mu/W105/M103/#M103のコントだけは、避けられないように出来ています。
なーるほど!! 実験してみました。ありがとうございました。
コントの部分は避けられない、、、これもなーるほどそうですよね。
いろんな便利操作など全く使いこなしていません。
y a sさんに申し訳ないですよね。最新情報は私の前世代のiPod touchには対応してないだろうな、などと一応は考えたりはしてすけれど、、
今から笛吹きに行きます。遅刻だ~!
ayaさん、ありがとうございます。
なるほど~。それは言えるなぁ。
早速入れ替えようかな・・・と思っておりました。
が、次のichiさんからのコメントで、思い留まりました。
僕は、頭を掻いておりました。(^_^;)
ichiさん、ありがとうございます。
危うく、入れ替えの作業に着手するところでした。
ichiさん言うところのayaさんからの初歩的な質問に、初歩的な間違った回答を差し上げなくて本当に良かったです。こう見えても(ってどう見えてる?)そういうところ、結構抜けているんです。
> コントだけは、避けられない
がはは。これには爆笑しました!
ayaさん、ありがとうございます。
ayaさんって、結構新しいものに敏感ですよね。車もそうだし。
僕は、二番手を行くタイプです。
でも、キュングの楽器を決めたのは早かったです。その場で即決。
以来、笛を買うときに、そういう癖がついてしまったような・・・。
ichiさん、ありがとうございます。
地元の新聞では、早々とチケット完売の記事が載りました。チケットに余裕があるのは東京公演だけだから、そちらで聴いてとまで書かれていました。
そんなこともあって、開演の1時間前の開場時には、見たこともない大勢の人が列をなして並んでいらっしゃいました。嬉しいことです。
I will be be listening to it very often.
Thank you for your warm mail.
I think that Mozart Requiem only by Male Chorus and Recorders are very fresh for you.
I say thank you again.
Best regards