◆IL DIVO◆ 野ばら / ウェルナー
≪生演奏を公開しています≫

Heidenroslein / Werner
URL : http://papalin.yas.mu/W303/#M008V04
◇公開日: 2010年11月6日
◇演奏時間: 1分44秒
◆録音日: 2010年11月 (49歳)
上のアルファベットの曲目名を
クリックして、Papalinの音楽サイト
からお聴き下さい。(視聴?・試聴?)
リアルタイムでコメントして下さる
敬虔なリスナーがいらっしゃいますが、
とりあえず後回しにして進めたいと思います。
IEが2回も以上終了して、
記事を3回も書かないといけないのは、
ただでさえ億劫な作業に追い討ちをかけ、
居た堪れないものがありますが、
とりあえず無視して進めたいと思います。
合唱、歌を歌うことを始めて間もない頃、
この曲を歌いました。
当時の録音を聴いてみますと、
アンサンブルの力は、今の方が少し勝るかな。
声は昔の方が艶があるかな。
少しは大人の表現になったかな?
大勢のPapalinたちによる多重録音にて、お聴き下さい。 <(_ _)>
下記コメントのやり取りにありますように、この曲は、シューベルト作曲ではなく、ウェルナー作曲のものです。出版社あるいは編曲者のミスと考えられます。サイトの方は訂正致しました。楽譜の方は関知外です。
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この記事へのコメント
先日 まど・みちおの番組を再放送していて、高校生が幸せってなんだと思いますか?という質問に、「じぶんが今生きていることを肯定的に捉えられたら、にんげんは幸せなんじゃないでしょうか」というようなことをおっしゃっていました。深いですね。こういう言葉をきいていると誰でも幸せになれるような気がします。
眠くなってきました・・・ZZZ
こちらは小学校のころの音楽に時間(笑)。
だから後にシューベルト作曲による「野ばら」を聞いたときに違和感が・・・
メロディーが違うと言う事ではなく、同じゲーテの詩なのに歌詞が違いました。
一番しか覚えていませんが、ウエルナーの「野ばら」はこんな歌詞です。
わらべは見たり 野中のばら
あしたの野べに きよらにさける
ゆめの花よ
くれないもゆる やさしのばら♪
この歌詞でインプットされていたので、近藤朔風さんのシューベルトがぴんと来なかった、と言う訳です。
今聴きなおしてみれば、それぞれの歌詞はそれぞれの曲に良く似会う素晴らしい訳だと思います。一つの詩に二つの歌詞、考えてみれば贅沢な歌です。
今聴いているこの曲シューベルト作曲となっていますが、ウエルナーの曲です。シューベルトののバラはもっと愛らしく弾むような感じ。 だんだんわけがわからなくなって、心をお知s付けてもう一度聴きなおしてみました。
この「野ばら」は本来シューベルトの曲につけられた歌詞がウェルナーのメロディーで歌われています。楽譜の間違い??にしても信じられません。
aostaさんと同じ違和感で、楽譜を確認してしまいました。
私の記憶ではこの歌詞はシューベルトに結びついていましたので。
これはウエルナーの野ばらですよね。原詞は同じですが、私の楽譜では同じ訳者(近藤朔風)の別の訳詞なっていました。近藤朔風はシューベルトの曲にこの訳詞とつけています。
ウェルナーの 野ばら 近藤朔風訳詞
わらべは見たり 荒野のばら
朝とく清く うれしや見んと
走り寄りぬ ばらばら赤き
荒野のばら
作曲者は明らかに違いますが、原詞は同じなのですからどちらも良いのかも知れませんね。aostaさんご記憶の歌詞には初めて出会いました。
ichiさん、ありがとうございます。
実はこの曲、ウェルナーが作曲した野ばらです。
いくら著作権が切れているとはいえ、嘘を書いた楽譜を平気で売っているのは戴けませんね。僕の苦手な藝大出身の大田桜子さん。どんな言い訳も通じないでしょう。即刻修正すべきです。メーカーだったら自主回収ものです。
さて、実は、この楽譜、音や歌詞が結構いい加減です。以前に演奏した別のアレンジャーによるこの手の編曲ものの楽譜の精度はかなり低いものだ・・・という認識が僕の中に確立されつつあります。情けないです。
ですので、今度は作詞に関しても疑念を抱いてしまうのですね。
aostaや、ayaさんの的を得た指摘が、それらを増大させます。
ichiさん、ありがとうございます。
ブラウザは他にもいくつかあって、僕自身も昔はNetscapeを使っていた時期もありますが、PCはそれ自体を主体とした生き方は自分にはそぐわないと思うようになり、PCは道具化しています。つまり、言い方は変かもしれませんが、世の標準品を使っている限りは、不具合もどんどん改善されて良いものになっていくだろうという、全く保証のない考え方をしています。寄らば大樹、それが良さそうな業界ですね。お断りしておきますが、マックも"大樹"だと思っています。
aosta、ありがとう。
原詩をどう訳すか?
訳すという作業は、作業ではなく、創造なんですね。
訳詞者の人生そのものを賭けた勝負事とも言えるかな。
aosta、ありがとう。
その通りでした。
僕は本分でちゃんと過去に歌った「ウェルナーの野ばら」をリンクしているにも関わらず、ブログを書き上げることが目的になってしまっていて、僕も感じた疑問をそのまま放置してしまいました。最近の私の行動、いけませんね。
本文の方も、音楽室の方も、訂正しておきます。
本当は僕の責任ではないんだけどなぁ。ブツブツ。
ayaさん、ありがとうございます。
私が本文でリンクしました"以前の演奏"は、ayaさんが書いて下さった歌詞で歌っていますね。作詞者まで確認しませんでしたが、そうでしたか、同じ近藤朔風さんだったのですね。いずれにしましても、この曲集、いい加減です。いい加減なものを出版しても逮捕されない、お気楽な世の中です。でも間違いなく、大田桜子さんの名声は下がることでしょうね。
おっと、まだ訂正していませんでした。(^_^;)
「野ばら」には、そもそもゲーテの原詞があって、それに
シューベルトもウェルナーも
(そしてシューマンやメンデルスゾーン、その他
おびただしい作曲家が)これに歌を付けているわけですが、
同じ近藤朔風が、シューベルトとウェルナーに
カスタマイズして訳詞していたというのが初めて認識できました。
逆の例が---
例えば「冬の旅」に、私は2種のバージョンの訳詞を持っています
/秘めてぞさらむ・・・
/われは来たりぬ・・・
/泉にそいて咲ける菩提樹・・・
/菩提樹たてり泉のほとり・・・
そのうち、両者が入り混じってしまいそうで、
こういうことを考えると面倒なので、外国の歌は、やはり原詞かー
と思ってしまいそうになるのですが、そうすると
次の曲たちはどうなってしまうのでしょうね・・・
/進め我が同胞よ、ともに力あわせ・・・
(これは「ウボイ」で、クロアチア語?の原詞があり
原詞をつかう合唱団も多いのですが、
私は上記の日本語訳を学生の頃使っていました
--これが日本全国どこでも共通かどうか分かりませんが…)
/いざたていくさびとよ・・・
(これは日本語訳しか知りません)
/ぶなの森の葉隠れに・・・
(この原詞はウィーン少年合唱団などで聴きますが
あえて原詞をというのをあまり日本では聴きませんね)
まあ、JASRACとすれば、訳詞にも著作権があるわけで
それをむやみに変えてはいけないのでしょうが、
と、色々考えているとずいぶんな時刻になってしまいました。
ーウェルナー・近藤朔風(シューベルト用)も、よかったですよ
ありがとうございましたー
シューマンの「流浪の民」ですね。
とても好きな曲ですが、最近聴く機会がなく、Geminiさんのコメントを拝見して久しぶりに思い出してしまいました。
昔、実家にあった古いSPレコードで良く聴いたものです。
子供の耳には、不思議でざわめくような、そしてちょっと怖い感じのする曲、として記憶されていました。あの波が襲いかかるような、デュナーミクを怖い、と感じた私はいくつだったのかしら。
原詩が誰の手によるものなのか知らないのですが、ドイツ語なのでしょうね。
あの歌詞の日本語訳は素晴らしいと思います。
篝火の光の中で舞い踊る黒髪の乙女たちをありありと想い浮かべてしまいます。
ここでリクエスト!!
この曲、ぜひにも歌って下さい。時間かかってもいいですから。ね?
昨日は思わず夜が更けてしまって書けなかった蛇足なのですが・・・
近藤朔風の2種の訳詞のうち、ウェルナー向けへのほうが、
私にはゲーテの詩の日本語への直訳にどちらかと言うと近いのか知ら、
と、私には感じられ、多分多くの日本人もそうなのでは、と思います。
一方、シューベルトの野ばらはたしかに、本当にいい曲なのですが、
なぜウェルナーのに比べ、あのように軽快なのか、
--場合によっては詩にそぐわなくも見えるほど--を感じていました。
ところが、10年少々前、「NHK趣味百科」、
フィッシャー・ディースカウ(FD)の「シューベルトを歌う」で
野ばら(もちろんゲーテの原詞で)が取り上げられ
FDが、この詩には性的な暗喩があって・・・とコメントしたのですが、
・・・それで?・・・と、私にはペンディングになっていました。
このブログを拝見して、ちょっと分かったような気がするのはー
・ああ、ドイツ人(オーストリア人も)はそう感じるのだ
・それで、シューベルトは野ばらを、一種の力強さをもった民謡
(≒有節歌曲)として作曲した
・でも、ドイツ人は(もちろん人によりけりでしょうが)
ウェルナーの曲にも別に違和感はない
・とはいえ、相互誤解にまでは至らないが、
日独間で、曲の捉え方の微妙な違いがやはりあるのだろう
--そう考えると、2種の訳詞を使い分けた近藤朔風というひとは!
★★流浪の民★★
リクエスト--そういう手がありましたね、
私も楽しみに・・・
Geminiさん、ありがとうございます。
いいですね、このお決まりの台詞が。
「一週間のご無沙汰でした」の玉置宏さんとか、名台詞でした。
ゲーテは、作曲家にとっては、そんなに喜ばれる人ではなかったようですが、この野ばらに関しては、引っ張りだこですね。
/泉にそいて咲ける菩提樹・・・
⇒ http://papalin.yas.mu/W303/#M003V04
/進め我が同胞よ、ともに力あわせ・・・
⇒ http://papalin.yas.mu/W303/#M005V04
/いざたていくさびとよ・・・
⇒ http://papalin.yas.mu/W303/#M004V02
こうして見ますと、結構歌ってますね。(^_^;)
/ぶなの森の葉隠れに・・・
⇒ 日本語によるの合唱譜が見つからずにいます。
aosta、ありがとう。
流浪という言葉のもつ響きが格別です。
この曲、音大の声楽科を出られた方々と10人くらいで混声合唱したことがあります。声量に驚きました。迫力も満点でした。ちょうど10年前のことです。そのときの楽譜がないかと探しているのですが、まだ埋没されているようです。
流浪の民の日本語詞は、原詩からちょっと離れているという批判もあるようですが、一方では原詩をしのぐ傑作だという評価もあります。音的には、aostaがいうように、恐さを感じさせるものがありますね。
Geminiさん、ありがとうございます。
使い分けた・・・
すごいことです。
近藤さん、音を聴いて詩を考えたのではないでしょうか。
僕も音楽室で歌っている、新実徳英先生の「白いうた青いうた」は、作曲が先で、それを谷川雁さんに聴かせて、詩があとからついた曲集です。音のもつイメージというのは、詩人にとっては非常に重要な要素だと思います。要素ではなくて、全てといっても過言ではないかも知れません。なので、近藤さんもきっと・・・そんなことをGeminiから頂戴したコメントを読みつつ考えていました。
性的な意味というのも定説です。
薔薇の棘が刺すというのは、そういう意味の、やや直接的な表現です。
そうそう、流浪の民、歌いました。
やっぱり不気味な雰囲気があります。
それを意識した歌い方になりました!